自力、他力

 死後の世界を認め、個人は死後尚存在し続けると考えてみる。肉体人生の経験を引っ提げて死後更に別の形態の人生を生きて行く。生きるとは内的に成長することである。死後もそれは続く。このような見方を正しいと看た上で自力、他力について考えてみる。

 人生の課題は肉体人間の根底にある利己心を脱却すること。人は利己故に苦しむ。苦しみは利己脱却への心奥からの要請である。苦しみの正体を見極めるのが自覚(気付き)。気付きは作為を以って得られるものではない。向こうから現われて来る。しかし自力は人事を尽くして気付きを得ようとする。他力は自己を空しくして気付きを招じようとする。
 知的思考の基本的性質は動機の正当化、詰り合理主義的思考態度である。自力には、自らの力で利己を脱却しようとしてもこの合理主義的思考態度が思考を占領し、結局思考を利己に絡め捕られてしまうという落とし穴がある。それを回避し知的思考を投げ捨てて只管称名念仏に没入するのが他力である。

 自力に出来ることは気付きの条件整備である。一方、他力は称名念仏それ自身を目的としている訳ではない。他力が進み利己を脱却して行くにつれて心境が進み、人生観が深まって行く。見える景色が変わって来るのである。自力、他力共にそれを目指している。
 無限の世界に対し人間の能力は有限である。人間の出来ることは普遍的真理への必要条件と思しき知見を得ること迄である。たとえ自力、他力を極めてもすべてを知り尽くせる訳ではない。私達は肉体人生を通して自己を深め、死後の更なる深化を期する。そのような見方からすると、自力も他力も同じ自覚への努力である。違うのは方法である。

 百尺竿頭一歩を進む。自力を登り詰めても、最後の一歩は他力である。そこでは自力と他力は一体となる。
 天命を信じて人事を尽くすという言葉がある。有限な人間に出来ることは、究極の真実を求めながら人生の歩みを進めて行くことである。

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