続 自力、他力 

 前回は死後の世界を認めた上で自力他力について考えてみました。今度は更に、個人は守護霊に見守られながら生きて行くという見方を加えて自力他力について考えてみよう。

 他力は、死後の極楽往生に救いを求めひたすら称名念仏をしながら生きて行く。平安時代、飢饉や社会の争乱の中で不安に追い立てられ、文字も読めずに知識の乏しい中で生きている人々が死後に救いを求めたのが他力の出発点である。一方自力(聖道門)は先ずみずからが覚りを得、それから覚りの知恵を人々に教え苦しみから救おうとする。しかし今では手軽に知識を手にすることが出来、自分で物事を考え判断することが出来る。だから昔ながらの他力は今では難いでしょう。

 称名念仏の目指している所は、「はからい」を捨てることである。「はからい」とはみずからの動機を正当化しようとする思考の働きである。知的な思考をする時、自分では正しく考えている心算でも動機に誘導されて理屈を作り上げようとする。思考も一つ行動であり、人間は動機に基づいて行動する。合理主義的思考態度である。これが自力の問題点である。だからこそ「はからい」を捨て自分の本音を見ようとする。昔の日本人は「はからい」の裏に心の汚れ、利己心を敏感に感じ取っていたのだろう。

 「はからい」を捨てると何が見えて来るのか。守護霊さんからの声が聞こえて来る。直感に閃き、おのずから確信の伴った判断が与えられる。しかし守護霊さんからはなんの示唆もないかも知れない。それでも守護霊さんに見守られていると信じる。これが他力である。最終の判断はあくまでも自分がしなければならない。人間に与えられた自由意思の行使である。結果失敗に終わっても責任はみずから取らねばならない。その経験を基に一歩成長するのである。これが自力である。

 右するか左するか、判断に迷うことがある。また時には自分の力では解決不可能な問題に直面する。そんな時、状況の変化を待ち、守護霊さんの為さり様を静かに見守るしかないということもある。誰でもそんな経験を持っていませんか。これが他力の真骨頂ではないでしょうか。

 自力で求める真理は詰まる所物的世界の真相、空ではないか。因縁因果に基いて物的世界には実体がないと理解しても、それで日常生活で直面する問題が解決するのでしょうか。少なくとも凡俗な人間には空を覚り人生を達観するのは無理な話である。人間は苦を体験しながら人生を一歩一歩進み、視界を広げて行くしかない。自力と他力は相反するものではない。他力(守護霊)に見守られながら真実を求めて自力の歩みを進めて行く。それが生きるということだと思います。これを「同行二人」というのでしょう。この歩みは生涯続いて行く。更に死後も続く。

 エドガー・アラン・ポーの詩「エルドラード」のテーマはこの「同行二人」でありましょう。shadeは守護霊であり歩みを進めるのが肉体世界で生きている私達である。(「呼吸の体操、呼吸法」のページを参照 )

 私達は守護霊さんと対話しながら日々暮らしている。問題に対処する中で守護霊さんからの示唆を受けている。ただ守護霊さんの声が雑音に邪魔され て聞き取れないことがある。雑音とは利己心、我執である。それを払い除けるのが禊である。呼吸法は禊の一つの方法と言えるのではないでしょうか。

随想

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