心の投影
自分の心を相手に映し、その映っている自分の姿を見て、それが相手の本当の姿なのだと思う。これが投影である。
人の姿は心を表す。『目は口ほどにものを言い。』 近頃こんな言葉はほとんど聞かれなくなった。言葉にして言わなければ気持ちは分からないなどと言い、恰もそれが当たり前のようである。私に言わせてもらえば、それは心の劣化。人類が言葉を使うようになったのは、人類発生以来の長い歴史からすればほんの少し前であろう。言葉に成らない音、その前に身振り、目付き等で相手の心を了解していた時間は途轍もなく長い。言葉を発明して初めて心が生まれた訳ではない。最近の言い方をすれば、心はDNAに刷り込まれている。
想いを表現したい、誰かに伝えたいというのは人間の根源的欲求である。そこから言葉が生まれる。言葉は想いの象徴で、伝えたい想い全てを言い表してはいない。発する人と聞く人の間に想いが共有されていて初めて意思疎通ができる。
人が分かる、理解できるというのは、その人が置かれている状況とそれに対するその人の感情を結び付け、感情の裏にある行き掛りや絡繰りに得心することである。ある人の状況と感情の結び付き方が自分と違っていると、私にはその人が理解できないということが起こる。ここで状況の捉え方に既に投影が働いている。例えば故郷は、そこで育った人と観光に来た人とでは意味が違う。家にしても、そこに暮らしている人とその家を訪問した人では別のものである。日常使っている小物も同じ。風景、家、小物も物質としてはどの人にとっても同じであるが、付されている意味は人それぞれに違う。
私達は各々独自に意味を付与した世界に住んでいる。しかし自分がある状況に置かれた時、それに対する判断は他の人も同じだと思い込み、その判断に相応した感情を他の人も当然抱くと想像する。これが投影である。自分の似顔絵を相手に張る着けるようなものである。それは無意識裡に行われる。ここで自分と違う感情を持っているひとを見た時、自分にはその人が理解できないということに成る。
感情は波動であり、自分と相手の感情は同じ感情の場を流れていて互いに感じ取れるはずである。しかし自分が習慣として身に付けている感情的反応、或いは道徳、社会通念等が感情の前面を覆って、私達は直に自分の感情を見て取れなくなる。こう感ずるはずである、このような感じ方をすべきであると思い込み、それを相手に要請するのである。そしてそこに疑問を抱かない。ここに誤解が生ずる。
私達は各々独自に意味を付与された世界で暮らしている。何らかの事態が生じ、その状況の中に何人かが置かれたとしても、人によってその状況に付与する意味は違う。ただ、経験を共有している人の間ではその意味に重なる部分が多く意思疎通が出来るのである。従って、経験の共有が無ければ同じ状況でも付与される意味が異なり理解し合えないということが起こる。生活習慣が違う所に行って人間関係にまごつく訳である。
ある状況に向き合った時自分は喜びを感ずるが、中には違うことを思う人も居る。ここで自分の中にその状況で喜ばない人間の姿も持っていると、その姿を相手に映し違う思いの人と心を通わす道が開ける。詰り、色々な姿を自分の内に持っていると、相応した姿を相手に映し、理解の幅が広がる訳である。これが人間の幅である。
幅を広げるのが経験である。目の前に在る現実、それに対する自分の心の反応。それを素直に感じ取る。素直に自分を見、前に居る他者を有りの侭に感じ取ろうとする。そして相手に映している自分の姿と実際の相手の感情とのずれに気付く。そのずれが腑に落ちた時、今まで知らなかった人間の姿を自分の内に取り込めるのである。これが人間の幅を広げる過程である。それは意識の層を深め、物事を見る視点を高めることである。
言葉の理解にも投影は働く。言葉は文脈の中で意味を持っている。人の姿が状況の中でその人の想いを表現しているように、言葉も文脈の中で文章を書いた人の想いを表している。そして文章を読む人は自信を言葉に投影して作者を理解しようとする。作者が読者の内的経験とは違うものを表現しようとしても、読者が同じような経験を持っていないとそれが分からないということが起こる。読者が色々な経験を経て心の幅を広げてから改めて文章を読んでみると、以前読んだ時とは別のものが見えるということも起こる。こういう文章は幅が広く奥深い文章であろう。勿論、以前感動したが改めて読んでみるとつまらない文章であるように感じる場合もある。
ところで、砂糖を嘗めたことのない人はいくら言葉で説明されてもその甘さが分からない。でも一度嘗めてみればどんな言葉もいらない。抑々、言葉のみで経験の真相を伝えられるのか。言葉は多くの経験を背負っている。
歴史問題に敷衍してみよう。歴史は自分の心を通して理解するしかない。目の前で実際に体験する訳にはいかないから、歴史の理解にはその人の幅が現われてしまう。幅の狭い見方しか出来ないと偏狭な歴史理解に終わってしまう。そして偏狭な理解を合理主義的思考で正当化するようになると、人間の幅が広がらず、心理的に停滞してしまう。歴史理解の裏に潜んでいる自らの動機に気付き、広い視野を持つよう努力を繰り返し、人間の幅を広げて行くべきだろう。その意味で歴史理解は自己との対話である。色々な経験を経て改めて歴史を振り返ってみると、以前には見えなかった新たな歴史の側面が見えて来るということも起こるだろう。
私が言っている『合理主義的思考』は言葉の技術である。言葉の辻褄合わせをし、自らを正当化して相手に打ち勝つのである。合理主義的思考は五感に相応した表層の意識で為されるもので、自己の正当化という発想は既に相手を想定している。ここで一歩踏み込んで動機の意識層に降立ってみると、自他の垣根が外されて、同じ想念波動の場で意識が共鳴出来るのではないか。動機の意識層で直に相手と向き合えば意識の共鳴が成り立つだろう。日本の文化はここにあったのではないか。
私達は自分の似姿を外界に投影し、その姿どうりのものがそこに有ると思い込む。自分と違う姿に接した時、疑問を抱き、その裏にある経緯や絡繰りを納得出来ると、自分の内にその事態や姿を取り込める。こうして人間的な幅を広げて行く。しかしこれがどの様な経過を経て実現できるのか。私にはその仕組みが良く分からない。人為的努力のみでは出来そうにない。人が理解できず、疑問を晴らそうとさんざん考えあぐねている時に、ふと気付く。そんなこともあるだろう。そんな時には、或いは霊界からの援助、指導霊の示唆が有るのかもしれない。自分の感情を、善悪を離れて、有りの侭に認めることは必要であろう。直指人心。これがなかなか難しい。短期間に納得できる解答が得られる訳でもないだらうから、疑問を持ち続けていることも必要である。
人間の幅を広げる努力、詰り精神的に成長する努力には終わりが無い。『生きる』とはこの努力を続けることである。
(『投影』とは簡単に言ってしまえば、相手に自分の似顔写真を張り付けるようなものである。だから人は自分に囲まれ、自分の中でのみ生きているとも言える。そうするとどうやって人間の幅を広げられるのか。この辺の事情について上の考察はまだまだ曖昧である。更の探って行こう。
『投影』は私達に色々な事を考えさせてくれる。皆さんも一時立ち止まって『投影』について思いを巡らせてみてはどうだろう。)