歴史の動機:物欲、支配欲

 人は動機に基づいて行動する。動機とは何かを実現したいという願望である。歴史は人間の行動が作り出していくのだから、歴史の根底には人間の動機が横たわっているはずである。生物としての肉体人間の根底には利己心が横たわっている。物慾と支配慾である。肉体生命の維持には物慾が、生命の継承には性欲がありそれが支配慾に繋がる。それは野生動物の行動原理であり、猿から進化した人類の意識にも深く根を張っている。英雄色を好む。なんてことを言うとあまりに露骨であり、お前の脳味噌は低次元だよと言われそうだけど、ここ二三百年の歴史を見るとこんなことも考えてしまう。そうではありませんか。

 物は粒子の特性を持つ。一つの粒子は一つの場所を占める。詰り、一つの物を誰かが持っているとその物は他の人が持つことは出来ない。だから物を多く持つためには他者と取り合いをすることになる。物慾とは、物が豊かに有ってほしいという以上に、誰よりも多く持ちたいという願望である。だからこそ慾という。従って物慾は執着となる。物は確り握っていなければ取られる。
 支配慾も同じで、人々を治め、安定した社会を作ろうという思い以上に、人を自分の思いに従わせたいという願望である。裏から見れば、誰かに支配されることに対する強烈な不快感である。だから誰からも支配されない独裁者に成らなければ満足しない。支配欲は権力欲になる。
 物慾、権力慾は意識の根本動機として人間に行動を強要し、歴史を展開して行く。そうあって欲しくないが、実際の歴史を見るとそのように言えそうである。経済が歴史の原動力と言っても、経済は利己心が誘導している。

 こうして展開される不幸な歴史を踏まえて、西欧世界で民主制が確立された。民主制とは人間の利己心を認め、その利己心を調整しながら社会を平和に運営して行こうという社会制度である。自由とか平等、独立、或いは博愛という目標を掲げ制度を正当化するが、何に対して正当化するかと言えば、例えば王権神授説に対してであろう。西欧では何事も論理的に正当化しないと気が済まないから、抽象的観念の世界に理想世界を作ってそれを現実に当て嵌める訳である。これらの目標は抽象的観念であり、その意味は十人十色。要は不自由、不平等でないことである。裏から見た方が分かり易い。


 民主制を実現するには、利己心を野放図に解放してしまうと悲惨を結果するということを誰でもが納得している必要がある。また人間の個性の存在を認める必要もある。この辺になると宗教が関わって来る。民主制確立の裏には、キリスト教のカソリックとプロテスタントが演じた血まみれの宗教戦争がある。西洋の思考には陰に陽にキリスト教が影響を与えている。西洋的思考の芯にキリスト教がある。それを心得ておかないと西欧の思考を本当の所で理解することは出来ないだろう。合理主義的思考態度を作り上げた裏にもキリスト教があるように思われる。( これは私の勘である。)
 

 肉体としての意識では自己と他者が分離している。粒子型である。一方、利他心は他者の悲しみを自己の悲しみとして共感する。一つの意識を共有する波動型である。人間の意識は肉体次元のみではなく、もっと広い領域を持っている。肉体意識の向こう側に利他心が広く横たわっていると思われる。人間が肉体次元の意識の中に入り込んでいる限り争いの歴史は続くだろう。何千年もの間人類は利己心を超えられてない。物的には大きな進歩を達成して来たが、人類は利己心という精神的な位置に停滞し続け、唯の一歩も進んでいないように見える。肉体由来の利己心を抜け出て利他心を現さねばならない。
 古来、色々な宗教が利己心に警告を発して来た。「汝自身を知れ。」「脚下照顧、直指人心。」『 自ら顧みて、人から為して欲しいと思うことを人に施しなさい、為して欲しくないことは止めなさい。』 しかし利己心は宗教をも物慾、支配慾の道具にしてしまう。宗教が組織を作ると堕落するという言葉を聞いたことがある。組織を大きくし、物、金を徴収し、政治的権力を手にする。それを合理主義的思考で正当化する。今も昔も変わらない。(勿論、真面目に人々の救済を目指している宗教団体もあるでしょう。)

 戦争を抑えるには利己心を治めることを学ばねばならない。その為には先ず自らを知る、自覚が必要である。自らを知り、そして自らを治めるのである。自覚は個人的体験である。集団自覚などない。また自覚は作為を以って得られるものではない。人為的に自覚を求めても、結局自己満足にしかなるまい。自分の気に入った自覚を得たつもりに成るだけだろう。私達に出来ることは自覚を得る為の条件を整えることであろう。感情の波を鎮める、内に持っている拘りを放す。呼吸法はそのための一つの方法であり、呼吸合気は動きの中の呼吸法である。

 合気道の開祖、植芝盛平翁は平和を希求しておられました。合気道は呼吸を通して平和への願いを体現していると思います。

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