呼吸法、「腰を入れる」
私は、姿勢の要は仙骨を両横から留めることであると言って来ました。そのようにするとおのずから背骨が起きて姿勢が整うのを覚えるでしょう。仙骨周りを腰と言いますが、腰は文字どうり身体の要です。だから姿勢の要を別に表現すれば、腰を両横から留めるとなるでしょう。普通このような言い方はしません。よく言われる表現をすれば「腰を入れる」となりますか。このように表現しなかったのは、腰を入れるというと腰を前に張り出して決めてしまうように思われてしまいそうだからです。実際にやってみれば分かるように腰を決めてしまうと身動きが出来ません。武道に於いて身動きできないというのは致命的です。私が言いたいのは、そういうことではなく、謂ってみれば仙腸関節をあるべき位置に嵌めるといったようなことです。木箱の蓋をはめるのに溝に遊びが無ければ嵌められません。遊びがあるからこそ蓋を嵌め出し入れ出来るのです。同じ様に、腰にも遊びが無ければ身体は動けません。そこの所を分かったうえで、姿勢の要は「腰を入れる」と言って良いでしょう。須らく物事は遊びが無いと上手く回りません。何事も決めてしまおうとすると、結局軋轢を生じ進めなくなってしまいます。そんなことをいつまでも続けていると、せっかく進んでいたのに後ろから皆に追い越され、気付いたら瓦礫の中に立っていたなどということに成ってしまうかもしれませんね。
腰を入れると上体を緩めることが出来ます。姿勢を維持しながら鳩尾を緩めることが出来るのです。鳩尾を緩めることは呼吸法の要です。鳩尾を張るのでもなく落とすのでもない。鳩尾を緩めるて初めて滞りの無い呼吸が出来るのです。ここで鳩尾を張ったり強張らせたりするのが良くないことはちょっと考えれば誰でもわかるでしょう。しかし鳩尾を落とすように勧められることがあります。これは腹圧を求めて言われるのですが、鳩尾を落とすと腰が歪んでしまい、正しく嵌めた仙腸関節も遊が取られてしまいます。鳩尾を落とし肚に力を籠める所謂丹田呼吸をしていると自由に身体を動かせなく成ってしまいます。これでは心も動かせなくなるでしょう。心は動くべき時には動けないといけませんね。鳩尾を緩めるというのは落とすことではなく、寛がせるといったような意味です。リラックスと言うのは寛ぐことでしょう。姿勢を維持しながら鳩尾を緩め、ゆっくり息を吐いて行くとおのずから肚に力が入って来ます。肚が両横から締まるように感ぜられる。しかしこれは敢えて入れる力ではありません。肚は息を籠める所ではないのです。
呼吸の滞る所は主に肚、鳩尾、胸、喉でしょうか。呼吸と心理は相応しています。肚に息を籠めると頑固になる。鳩尾に呼吸が滞ると不安、胸は気持ちが弱る、喉は神経質。各部分は夫々に働きが有ります。意識の活動を知情意に分けて考えてみると、知の中心となる所、座は頭、情の座は胸、意の座は鳩尾となりますか。意というのは物事を総合的に判断する働きだと思います。そして肚は敢えて言えば決断の座と成るでしょうか。呼吸が滞るとこれらの座が上手く働けなく成ります。腹圧を掛けて肚を強調しますと、目の前の事態を正しく判断できず、変に誤解して頑な態度を取ることにも成りかねません。腹圧によって腹部から追い出された血液が心臓や脳を圧迫し、脳溢血や心臓麻痺を起こすかもしれません。知情意が誤りなく働いてこそ初めて正しい決断が出来るのです。知情意の座が滞りなく働くには滞りの無い呼吸が必要であり、その為に鳩尾は緩んでいなければなりません。そのような呼吸を下で支えるのが肚です。滞りない呼吸を下で確り支えることを「肚を据える」と言います。
肚と腰は対に成っていて、肚を据えると腰が入ります。腰を入れると肚が据わります。そうすると姿勢が整い、意識が整います。意識が整うというのは、止まっているものは止まって見え、動いているものは動いて見えるということです。心が動揺していると止まっているものも動いて見える。当たり前のことを当たり前に見ることを「肚を据える」と言います。物事を有りのままに見通しながら事に対処するということです。それは心を曲げず身体を動かさないことではありません。
肚と言うとどうしても相手と対峙し相手に打ち勝つ、更には相手を潰してしまうといったようなことを連想してしまいますが、私の言いたいことはそういうことではありません。肚に似た言葉で丹田というのもありますが、これは中国来の言葉で私の言いたい内容とはしっくり合わないように感じます。
ついでにひとこと言わせて頂くと、腰は入れて身体を動かすのですが、肚は動くと心は動揺します。身体を動かしながら肚は動じない、これが肚を据えるということで、事に対処するに当たっての要点です。
今時ものを判断するに当って、腰の構えなどを言うと奇妙に感ずるかもしれませんが、腰がふらついていてはまともな判断など望めないでしょう。心は呼吸に映ります。心に拘りが在ると呼吸が滞る。滞らない呼吸の稽古は拘りを吐き出す努力です。だからここで言う呼吸法では息を口から吐くのです。拘りを吐き出し心に埃が無くなって来れば、自分への気付きの道も開けて来るでしょう。動揺せず物事を明らかに観ることが出来る心が呼吸法の大きな目標です。
しかし道は遠い。