指の使い方と呼吸・「肚の呼吸」
指の使い方について考えてみる。特に呼吸と指の関係を見よう。
剣を持つ時、誰もが何の疑問もなく小指を締めるのではないだろうか。しかし小指を締めた時の呼吸は如何なっているだろうか。自分の呼吸を確認してみてください。小指を握り締めると息が詰り、肩が固定されてしまわないだろうか。これで剣を扱うのは相当難しい。身体を固めておいてその身体を自由に動かそうとするのだから。一方、人差し指はどうか。箸を使うには人差し指と中指を使う。中指に箸を載せ親指を使って箸を挟み、人差し指は箸の先端を決めるように使う。薬指と小指は巻いている。また人差し指は握り締めても呼吸に影響しない。変わらず呼吸できる。人差し指と小指は対称的である。
小指を締めずに剣を持つには、中指と薬指で親指と向かい合って剣を握り、人差し指は軽く巻いて指根を剣に当てるように添える。小指は単に巻いておく。しかしこんな持ち方をすると間違いなく先生に叱られるだろう。剣は小手先で扱うものではない。
てい ところで、小指を締めずに物を持つスポーツは幾らでもある。野球でピッチャーがボールを投げる時、小指は使わないだろう。腕を使ってボールを投げる。指はボールに回転を与え、ボールを放す時には手首から指を使ってスナップを利かせる。小指を使わないからと言って小手先でボールを投げている訳ではない。槍投げという競技もある。小指を締めて持っていると、槍が手を離れる時手首のスナップが利かせられないのではないか。他にも小指を締めずに物を持って行うスポーツはあるだろう。小指を締めないからと言って小手先のテクニックという訳ではない。寧ろ小指を放すことで手首や腕が使い易くなる。小指を放し、呼吸を塞がずに剣を持ち、腕で剣を使うことは出来る。この時使う力が呼吸力である。
指の使い方を考える時、呼吸を感じることが重要である。呼吸を感じ取るのは、初めは難しいかも知れないが、そのつもりで稽古を重ねていると感じ取れるように成って来る。そして重要なことは、呼吸を感じる稽古が同時に自分を感じる稽古に成るということです。呼吸を感じることが意識を自分の内に向ける契機に成る。「汝自身を知る」為の入口です。
呼吸は心と身体の結び目です。呼吸はいつも自己と共にある。自己をより深く知ることは他者をより深く知ることに通じています。他者とは自己の投影ですから、自己の理解が深まれば他者に映す自分の姿もより深くなり、他者と深い意識の層で共感できるようになる。単なる指の使い方ですが、呼吸を見ることでそれは気付きに繋がっている。このことが呼吸合気の稽古の意味です。技の稽古をしながら自らの呼吸を見、より深く自分を知るようになって行く。
ところで、人間にとっての自然な呼吸とはどんなものだろうか。
無酸素運動というのがある。自己を防衛する時の行動であろう。身体を硬直させ鎧のようにして攻撃から身を守る行動である。誰かに敵対した時に起こる。この時知らずに小指から拳を固く握り締める。昔は剣で命の遣り取りをした。剣を以って相手と向かい合った。当然、小指を締めて剣を持つことになるのだろう。
無酸素運動は肉体を防御する時だけでなく、心理的に自己を守ろうとする時にも起こる。心理的な脅威、ストレスを感じた時、思わず小指を締め肩を強張らせて息を詰める。この状態が続くと身体が窮屈になり、運動をしたりマッサージをしてもらって身体を解し、ストレス解消と成る。
有酸素運動というのもある。無酸素運動は呼吸を止めるが、有酸素運動は身体に充分な酸素を取り入れながらする運動である。身体を動かすには当然酸素が必要なのだから、この運動は滞らない呼吸の下に行う運動である。ここに現れる力が呼吸力である。呼吸力とは特殊な力ではない。私達は日常気付かずに使っている。何の気なしに手腕を動かした時、驚くほどに強い威力を発揮することがある。ふと振り返った時重い置物を倒してしまったという経験はないだろうか。これが呼吸力である。また茶碗を持つ時、箸を使う時、ペンで字を書く時、当たり前のように呼吸力を使っている。その時呼吸は恰も無いかのように滞っていない。
事に当って常に滞らない呼吸を維持し得て初めて適切に対処できる。呼吸が滞らないということは、心が停滞しないということである。不安に成ると心は澱む。落ち着いている時心は滞らない。これを肚が据わっているという。肚という言葉には人夫々に色々な印象を持っているでしょう。命の遣り取りが身近に有った時代には、肚という言葉に人は切実な思いを持ったのでしょう。しかし少なくとも今の日本は、幸いにも生命の危険を身近に感じる状況にはない。国内で銃撃戦が行われ、ビルが破壊されるようなことはない。その様な時に敢えて特殊なものを求めても仕方がないでしょう。私の言う「肚」とは、落ち着いて事に対処する時気持ちが納まっている処です。そこに気持ちを納めた時の呼吸が「肚の呼吸」。これが人間にとって自然な呼吸であると思います。
私達は日々色々な問題に遭遇します。その問題に対処する時、呼吸への注意など往々どこかへ飛んでしまいます。その時自らの呼吸を振り返り、肚の呼吸を思い出せれば、心の余裕を持って事に向かい合うことが出来るだろう。肚の呼吸を日常の当り前な呼吸として身に付けられれば、初めから適切に事を処理することも出来るだろう。
呼吸の体操はこの肚の呼吸を会得する為の運動である。これを稽古するに当たって注意すべきことは、先ず、呼吸が先行して腕の動きは呼吸について行くということ。息を吐き始めてから腕が下り、吸ってから上がる。この体操は呼吸の練習であり腕の稽古ではない。次に、勢い込んで吐こうとしない。勢い込むと喉が力む。そこで喉の力を抜くと胸に力が入る。胸の力を抜くと結局肚で吐くようになる。ここで鳩尾を落とさないよう注意しよう。こうして滞らない肚の呼吸が出来るようになる。身体でその呼吸を会得できれば、日常の呼吸がおのずから肚の呼吸に成っている訳である。その時姿勢は腰を入れた、仙骨を両横から留めた姿勢に成っている。
肉体は歳と共に衰えて行くが、呼吸の稽古は年齢に関係なく行うことが出来る。身体の調子を見ながら丹念に稽古を続けて行けば、肚の呼吸は、早い遅いの差はあろうが、誰でも会得できる。そして肚の呼吸は自らに気付く落ち着きを実現してくれるだろう。
ただ人生観を根本から転換するような大きな気付きは、人為的な努力で得られるものではないと思います。人生そんなに甘くない。そこには人為を超えたものがある。それは守護霊、指導霊の仕事であろう。人為的に苦しい訓練をしても、それはあくまでも人間の知恵。自己の限界内の話である。本当の気付きは人為の外にある。人為に出来ることは日々の行いを整え、真の知恵を求めて努力することであろう。人生に奇策はない。一歩一歩丹念に歩みを進めて行くしかない。事に当って対処し得て、それでも難しいのが人生である。一歩一歩進む努力が呼吸の体操であり呼吸法である。そして動中にそれを行うのが呼吸合気である。ここに「呼吸合気」の意義が有る。
「肚の呼吸」は豊かな滞りの無い呼吸、胸襟を開いた呼吸である。悠揚として迫らず、おのずから人と和す。これが「肚の呼吸」を会得し、「空」を知り得た人の姿であろう。そんな人に会ってみたいと思う。しかし現代社会にはそのような人の居場所は在るのだろうか。