正法眼蔵 現成公案
『仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。』
道元禅師、正法眼蔵現成公案の一説である。
自己とは、物質世界の中で色々な価値基準に照らした自分の位置を思い定め、それと肉体としての自分を統合し意識された観念である。強さという基準、頭の良さという基準、また社会的地位、等に照らし、他者より優れているか劣っているかを見、肉体としての自分がそれを担っていると観念する訳である。従って、自己について考える時働く思考は、物質の基本的在り方を反映した粒子型の思考で、矛盾律排中律を原則とする。
他方、人はその動機に促され、動機を実現すべく行動する。知的行動は動機を正当化すべく働く。この動機は五感に対応する表層意識の下に在り、そこで働く意識の構造は波動型であり、重層構造を成している。重ね合わせの原理が原則であり、矛盾律排中律は成り立たない。動機の世界では、喜びと悲しみという相矛盾する感情が同時に同一人によって抱かれる。そこで働く認識法は「気付き」である。気付き とは物事を観る視点を一段高めることであり、一段深い意識層に自分の意識を同調させることである。それは意識の転換であり、意図して得られるものではない。
現成公案の言葉は、意識の転換を内的体験に即して述べたものであろう。これを別の言葉で言えば、「色即是空」、「煩悩即菩提」である。色とは物理的な物体でもあるが、私達にとっては悩み苦しみの対象を意味する。煩悩を生み出す原因である。その依って立つ所は自己であり、自己故に悩み苦しむのである。価値観と肉体を統合した観念が自己であり、それは価値観を依り所にしているが、逆に見ればそれに縛られている。その縛りを解くことを空ずるという。空ぜられて価値観は空と成り、拘束力を失う。この空を得せしめるのが意識の転換であり気付きである。住していた意識の層を一段深め、より高い位置から事を観るのである。煩悩の根は自己であり、自己が色をして色たらしめる。その自己を手放し忘れた時、おのずから視界が開け物事を見て取ることが出来る。こうして菩提を得る。煩悩の拠り所である色を空じ、菩提、詰り悟りを成ずる。
現成公案の言葉に即して言えば、悩み苦しみの依り所である自己を考究し、尽くしてあげく自己を手放し忘れる時、おのずから視界が開け悟りが成ぜられる。
禅の公案は、論理的思考を停止し、波動型の認識法、詰り「気付き」を会得する為の訓練である。論理的思考は敢えて為すものであるが、その出発点は論理の外にある。出発点とは動機である。多くの人が論理を尽くし論争しても、結局結論に行き着かないのは、動機が違うからである。公案の目指すところは「直指人心」。自己という観念を放擲し、目の当たりに自らの姿を観る。隠れている動機の覆いが取り払われ、心に光が射し込むのである。これはまた古代ギリシャの言葉、「汝自身を知れ」と同工異曲である。
しかし話は此処で終わらない。論理的思考を停止し、只管に座り続けたからといって必ず高い視野が得られるという訳ではないだろう。更に、一度空を成じ悟りを得たとしても、波の波長は何処までも短く精妙になり得るように、悟りの深さには限りが無いのであろう。このような問題はとうてい私の様な者には解けるべくもないが、少なくとも論理では解決できないだろう。ここに霊界からの示唆ということが出て来る。「気付き」に関連して、啐啄同時、機が熟す、また機縁、等の言葉があるが、これらは指導霊からの示唆を捉えていると言えないだろうか。「気付き」について考えることは霊界の扉を開くことになるのかもしれない。更に掘り下げて考えて行こう。