心の構造
私達が意識する自己とは、一定の価値観とそれに依って秩序付けられた記憶の総体を、肉体と一体のものと見なして作られた観念である。記憶は過去のものであり、価値観は個人の生い立ちや受けた教育等に依って深層の意識に作り上げられたもので、環境や時代が変われば違うものになる。詰り、自己という観念には普遍性が無い。こういうことから、確固たる不滅の自己は無いということに成る。ここから、心の苦しみは本来無い自己に拘るが故に生まれるもので、自己は無いと自覚すれば苦しみから解放されるという話の筋が出来上がる。しかしこれは理屈であり、現に苦しみを抱えている人が頭でそれを理解したとして、いったいどれだけの安らぎを得るだろう。目の前の苦しみを放り出して、頭だけで一足飛びに無我へ飛び込んで行っても、足元が定まらず彷徨うだけだろう。
悩んでいることは当人にとっては確かな事実であり、心の働きである。人間は五感を頼りに物事を捉えるので、大きさや形の無いものは認識できないが、働きが有るからにはそれを司る主体が有ると考えざるを得ない。五感の網には掛からないが、働きを持った存在が有る。昔の日本人はそれを感じ取り「たましい」と名付けた。その形を円いものと想像し、胸に有ると感じた。秘めた心は胸に有る。特殊な霊能など持たない私には、魂は概ねこのようなものである。
心は魂を核として、外側に意識の層が重なっており、最表層に五感に繋がる意識が有る。五感で捉えた事の印象は下層意識に送られる。その過程で印象は、心に作り上げられている価値観の枠組みを通過し意味付けされて下層意識に記憶される。その意味付けされた記憶の総体を私達は自己と観ずる。ずいぶん大雑把ではあるが、これが私の考える心の構造である。
では、心はどのように働くか。私達は心に動機を持ち、その動機を実現すべく行動する。知的側面を考えれば、思考も頭脳に依る行動であり、動機を正当化するように頭を働かせる。こうして作り上げられた知的構築物が思想である。思想とは、その思想家が望む世界観、人生観を論理的に正当化したものである。望ましい世界観人生観の核芯は思想家の深層意識に秘められた「念」である。理論的に形作られる前の「思い」である。その念が動機となって人を内から促して思想を作らせる。思想の形成過程は動機に始まり、論理の鎖を繋げながら動機の正当性を結論付けて終わる。動機に発して動機に終わる円環を成している。出発点の動機、念、は最後には論理的構築物の核芯に据わり、外からは見えなくなってしまう。下層の意識は上層意識に働き掛けそれを動かせるが、上層の意識は下層意識を動かすことが出来ないようである。謂い方を変えれば、潜在意識に有る念は、顕在意識を促して思想を組み立てさせていながら、顕在意識はそれを自覚しない。これが私の言っている「合理主義的思考」の原理である。
事を主張するには論理の筋を通さねばならないが、論理の筋が通っているからと言って必ずしも主張が真であるという訳ではない。真理には筋が通っているが、筋が通っているからと言って主張が正しいとは限らない。論理の筋を立てるのは一つの技術でしかない。物理学では、理論に論理の筋が通っていても、実験に依って理論の結果が否定されれば、理論は偽と判定される。ところが、思想には真偽を判定する確たる方法が無いのだ。いきおい、感情的共鳴で真偽を判定することにもなる。物理学は確かな進歩を実現しているが、思想には、一度否定されても時代を経て蘇って来るものが有る。思想の根本に有る動機が時代を貫いているからである。思想を判断するには、思想の秘めている根本動機を見極めねばならない。精神的に高い動機を持つ思想が何百年、或いは何千年も継承されて行くのだろう。
魂の上に描かれた絵柄が自己であり、価値観はその絵柄の重要部分である。絵柄は書き換えが効くが故に自己は無いということに成るが、魂はそれ自身普遍的な意識を有っているのではないか。魂の表層、詰り通常意識の最下層に、肉体生命の維持継承を要請する利己心が有る。そしてその下に利他心が隠れている。そこには、他を差し置いて自らの物慾支配慾を追求することに対する罪の意識が有るのではないか。良心である。利己的慾望を追求する人は執拗に自己を正当化しないだろうか。正当化する相手は他者であるが、自ら感ずる罪の意識に対して正当性を主張するという側面はないだろうか。内なる罪の意識は消せないのである。但し、これは平然と人を虐殺し、またそれを指示する人間の罪が少しは軽くなるという話ではない。そんなことに成れば因果の理が崩れる。
西洋で精神の解放というと、例えば、天動説から地動説への転換のような科学的知識の獲得が思い浮かぶらしい。これは中世のキリスト教的世界観からの解放を暗に予想しているのではないか。対して日本では自縄自縛の苦しみから解かれることを心の解放、救済、と考え、多くの思索を重ねて来た。日本は心を深く見つめる文化を培ってきたと思う。昔から「一霊四魂」と言われて来た。心の構造を見て行くと、上では触れなかったが、霊とか輪廻などの問題に行き着くのだろう。
更に考究して行こう。