呼吸法 『丹、甕の如し』
新たに「呼吸法」というカテゴリを作りました。呼吸法について自由に書いて行きます。
人の骨格は、簡単に言うと腰の上に背骨を立て、その上に頭を載せている。そして腰は、二本の脚の上に股関節を介して繋がっている。背骨は、肋骨に囲まれた肺を含めた内臓を収める容器の柱である。この容器はやたらに歪めない方が良い。だから身体を動かすには股関節を軸にし、腰を安定させて、上体をあまり歪めない方が良い。これが身体を動かす時の基本となる考え方である。
腰を安定させるやり方は昔からいろいろに表現されて来た。腰を入れる、腰を据える、腰を決める、等々。これらは体感を表現している。理解するにも体感に依らねばならない。腰の構えを会得できればどの表現も同じになるが、要領を掴めない中はそれぞれ別の構えを表現しているように感じられる。そこで私は腰の中心である仙骨に注目して腰の構えを考えてみようと思う。
私の提案は、仙骨を両横から挟むということである。挟むと言っても、腰回りの筋肉を訓練してそうしようというのではなく、意識を使う。仙骨を両横から挟むと想うのである。例えば、右に向こうと思った時、筋肉を具体的にどう使うかを考え、考えたとおりに筋肉を動かして、その後に初めて身体が右を向くという訳ではない。右に向こうと思ったら、筋肉がおのずから働いて身体が右に向くのである。これと同じで、仙骨を挟むと想えばおのずから筋肉が働いて仙骨を挟む。ただし、挟むと言っても固く挟み付ける訳ではない。私達は箸を持つ時,指で挟もうと思って持つが、特別力を入れたりはしない。しかし外からその箸は抜こうとしても抜けない。力を籠めずとも箸は確り持たれている。これと同じように仙骨を挟む訳である。やってみると、筋肉がおのずから働き、実際に筋肉が仙骨を挟むのを感じ取れるだろう。その時巧まずして背筋が伸びていることに気付く。これが腰の構えの要領である。
この構えを維持している時の呼吸を確認すると、滞りの無い呼吸に成っていることが分かる。この姿勢で静かに息を口から「ハー」と充分に吐き、少し間をおいて、鼻から「スー」と息を吸う。充分吸ってから、少し間をおいてまた吐き始める。これを繰り返すのが呼吸法である。そして吐く時には、心の内に有る言葉以前の想いを自らに語り掛け、吸う時は、自己本来の声に耳を傾ける。そう念って呼吸する。心を開いて想いを放ち、自己の声に耳を澄ませて心を整える。詰り、自己との語り合い、これが呼吸法なのである。
話を変えて、別の角度から呼吸法について考えてみよう。
鎌倉時代、無学祖元禅師に「丹、甕の如し」と言わしめた北条時宗。弱冠二十代。元寇に一歩も引かず、見事に元を退けた。ここで改めて時宗の呼吸について考えてみよう。元寇に匹敵する、あるいはそれ以上の危うい状況が日本に迫っている今、改めて時宗の呼吸に思いを向けてみようという訳である。「丹、甕の如し」とは時宗の胆力を褒めた言葉であろう。胆力、詰り肚、というと、私達は唇をへの字に結んで、下腹に息を籠め、微動だにしない姿を想像する。実際にこの姿勢を試してみると、確かにどっしりと肚が据わったような気がする。しかしこれでは呼吸が滞り、心が固まって身動き出来ない。元寇という国難に当たって時宗が、下腹に息を籠めた姿勢であったら、果たして果敢に対処出来ただろうか。それよりも、柔軟な心こそ必要なのである。事態を見透し、適切に対処できる心の姿勢が求められる。心が柔軟であるということは、心を映す呼吸で見ると、呼吸が滞らないということである。そして滞らない呼吸は、上で述べたように、仙骨を両横から挟んでいるように腰を構えた時の呼吸である。肚と腰は対になっていて、「肚を据える」と「腰を据える」は同じ構えを表と裏から表現したものである。胆力とは、腰の構えを維持する力量である。肚を強調するとどうしても息を下腹に籠めてしまい、却って身動き取れなく成る。腰の構えを確り維持していれば、おのずから肚は充実する。これを「丹、甕の如し」と表現したのだろう。
事に当たって、露わな強さより、芯の有る秘めた強さを求むべきである。
呼吸法の要領は 自己との語り合い である。が、胆力 もまた呼吸法の重要な側面なのである。