静座法と「肚の呼吸」

 部屋の窓を開け放って風通しを良くし、埃を掃き出す。その後家具をきちんと並べ直して、清々しい気持ちで新たに生活に取り組む。私達が生きて行く上で、先ず求められるのは落ち着いて心穏やかに生活することであろう。特殊な能力を求めるより当たり前に生きる。本当の知恵はそういう生活の中でこそ得られるのではないか。部屋を掃除するのが呼吸法であり、部屋を整えるのが静座法。肩から胸、腹、そして下腹部である肚、体内に滞っている汚れた息をきれいな外気と入れ替える。そして通りの良くなった呼吸で静かに座って心を整える。これが静座法である。静座法の呼吸が「肚の呼吸」であると考える。

 「肚の呼吸」の要領を述べよう。
 横隔膜は内臓を上から覆っている筋肉である。筋肉というものは二つの支点の間に張り渡されており、収縮するとその両支点を引き寄せる。ならば横隔膜の支点は何処だろう。これについては詳しい話を聞かない。素人の勝手な想像であるが、腹部の筋肉は全体で内臓を包んだ袋に成っていて、腰の所で窄まるように成っている。窄まる処が腰。そう考えると腰の両側が腹部の筋肉の支点ということになる。肚は袋の下部であり、横隔膜は上部に有る。おおよそこんな絵図を描いてみると呼吸の体感をうまく説明できるように思われる。
 さて、肚から息を出してみよう。肚の筋肉を絞めて息を吐く。そうすると腹部の袋は連動して横隔膜も絞まり、筋肉の支点である腰も引き絞まるのを覚える。肚と腰は一体のもので、横隔膜も連動する。この時腰を外して肚を絞めると、袋は絞まらず腹部が凹んで内臓が絞め上がるだけに成る。これは腑の抜けた呼吸であり、心の動揺した状態に相応する。腰を維持しておくのが重要である。ところで、この「肚の呼吸」を意識的に筋肉を動かしてやろうとしても、あの部分もこの部分もといろいろな筋肉を意識しなければならず、簡単にはいかない。呼吸は胸でするが、意識でする呼吸は何処でもできる。例えば指先でも呼吸することが出来る。指先で息をしていると想えば、指先で息しているような感覚を得られる。そこで肚で呼吸しているように想ってみよう。腰から肚を周って帯を渡していると想像し、その帯を絞めるように想っても良いだろう。そうするとおのずから肚が絞まり息が吐ける。その時、腰が締まり横隔膜も収縮して腹圧が生ずる。吸う時も、息が肚に入って来ると想うとおのずから肚が緩み息が肚に入って来る。ただ、吸う時にいきなり肚、腰を緩めてしまうと呼吸が外れてしまう。詰り心が外れ隙が生まれる。呼吸する時は腰を外してはいけない。そして、静座をする時は吐くのも吸うのも静かにゆっくりと行う。

 ところで、肚を心理的に見ると、どういうものに成るだろう。「肚を決める」という言葉が有るように 、肚は意志を司る処と考えられている。事を決意しその決意を堅持する処。しかし堅持しようとして、どうしても肚に息を籠めてしまう。詰り息が滞る。物事は滞ると腐る。善念も拘ると質が変わる。肚に一物という言葉が有るが、何ものかを肚に秘めていると、腰が緩み鳩尾が落ちて呼吸は怒責と成る。腰の支えが有るからこそ滞らない呼吸ができるのだ。肚は、上体の力を抜いた時、その上体をしっかりと受け止める処であり、「我」を根底で受け止める処である。その肚を腰が支えている。自らの全存在を受け入れる覚悟を決めた時、初めて物事を冷静に見通すことが出来る。これを会得するのが静座法の目標である。そしてその呼吸が「肚の呼吸」。
 しかし、あまりに遥かな目標である。

 ( もう一度言っておきます。物事は滞ると腐る。覚悟を決める言っても、覚悟を肚に籠めるのではありません。そんなことをすると却って心が硬直し呼吸が滞ってしまいます。自らを受け容れるというのは、有りのままの自分を自らに隠し立てるようなことはしないということです。つまり自分を開くのです。そうしようと決めて初めて滞りの無い「肚の呼吸」ができる。)