改めて呼吸法を見直す
抑々、肚・丹田の呼吸法とは何か。
当たり前であるが呼吸は肺でする。私達はふだん肺で楽に呼吸し、体の何処にも圧迫感は無い。ということは何処かに圧迫を感じる呼吸は不自然な呼吸ということだ。丹田呼吸は敢えて腹圧を得ようとするが、それは不自然な呼吸ということになる。ならば、人は何故丹田呼吸という不自然な呼吸を敢えて求めるのか。肚とか丹田というのは、人が不安に捕らわれた時に注目されるように思われる。心が不安を感じ動揺すると呼吸も動揺する。心は呼吸に現れる。そこでそれを逆にして、呼吸を収めて心を整えようとする。これが呼吸法の求められた理由であろう。動揺した呼吸を丹田呼吸で収めて心を整えようとする訳だ。しかし、だとすると丹田呼吸は不安を克服する為の一時的な対処療法のようなものということになる。
社会が不安に覆われている時、丹田呼吸を訓練し習熟してもそれで社会問題の解決策が見出せる訳ではない。問題の解決策を見出すには、脳に充分な酸素を送り、脳の働きを促進することだ。それと同時に、勘の働きを良くすること。特に勘は心身共に寛いでいる時に発揮される。寛いでいると血液循環も促進され脳も良く働く。だからこそ当たり前で寛いだ呼吸が求められるべきだろう。
楽な呼吸を改めて点検してみると、体の何処にも凝り、障りの感じられない呼吸である。別の言い方をすれば、滞りの無い呼吸だ。楽に息を吸い楽に息を吐く。そうすると鳩尾の所に呼吸が落ち着いているのを覚えるだろう。鳩尾は肺の下部で、横隔膜の位置する処だ。横隔膜は単なる膜ではなく、筋肉で出来ている。筋肉は体内で浮いている訳ではなく、支点から支点に渡されている。普通は関節が支点である。横隔膜の場合は仙腸関節が支点に成っている。( 私は人体構造には詳しくないのでこれは私の予想である。)横隔膜は呼吸を司る筋肉の重要な部分だ。息を吐く時に横隔膜は収縮し、吸う時に緩む。横隔膜が収縮出来るのは仙腸関節、詰り腰が支えているからである。だから息を吐く時には腰を絞めるような力を感じ、また腹圧が掛かる。ただ、この腹圧はおのずからうまれるもので呼吸を圧迫しない。敢えて作り出す腹圧ではない。これが真の肚の呼吸であろう。結局、真の肚の呼吸とは、人間の身体にとってはごく自然な当たり前の呼吸と言って良いだろう。
不安に対処するには、動揺する呼吸を平常な呼吸に戻すことが必要だ。だから可笑しな言い方だが、当たり前の呼吸を身に着ける必要がある。その当たり前の呼吸は多少なりとも腹圧を伴うので、そこを注目して敢えて腹圧を作り出す呼吸が求められるようになった。こんな筋書きが想像できる。
或いは特殊能力を求めて、敢えて不自然な呼吸を考える人が居るかもしれない。しかしこれは違う話だ。
因みに、先ほど「勘」と言ったが、勘などを持ち出すのは今時おかしいかも知れない。しかし、事が壁にぶつかり閉塞した時、壁の扉を開くのが勘ではないか。勿論勘違いも多い。しかし、私は勘という認識の働きが有ると思っている。寛いでいる時、ふと現れる閃き。分かってみると、簡単でありながら解決の道筋が明らかに見透せる。論理を介さない認識である。論理は後から追いついて来る。これは誰もが経験しているのではないかと思われるが、真面目に注目されない。