思想と動機(論理的思考の からくり)
人は動機に基づいて行動する。考えるのも頭で行う行動で、同じく動機に基づく。動機を正当化すべく知力を働かせるのだ。思想とはこうして作り上げられる。思想家は自ら作り上げた思想を普遍的真理であると主張するが、人間の有限な能力を使って普遍的真理を見出すのは抑々不可能である。矛盾律排中律、詰り粒子型論理に反していないことが普遍性の大きな根拠であるが、粒子型論理は普遍性を保証しない。論理は先ず前提から出発する。しかしその前提は論理の圏外に有る。もし前提が論理的に導き出せるものならば、その論理の前提がまた必要となり、これは何処までも遡って行くことに成る。結局、前提は思想家に与えられている事柄の中から自ら選び取るということに成る。この点は見落とされがちである。前提は、例えば世間の常識とか歴史的事実、あるいは科学的知識などに成る。(事実を捏造して前提とすることも時には有るがこれは論外である。)更に論理を展開していく過程で関連する事柄を取り入れることに成るが、事柄には常に解釈が伴い、その解釈の仕方は思想家の任意に任される。ここに動機が介入して、思想家は都合よく自らの動機を正当化できる前提や解釈を選び取ることに成る。詰り、思想とは動機が選んだ前提から出発し事の解釈を差し挟みながら粒子型論理を繋げて、最終的に動機の正当性を主張するものである。動機から出発し動機に還る円環を成している。これが合理主義的思考の基本構造である。しかし動機は論理の後ろに隠れて見えなく成っており、思想家自身自らの動機に気付かないことも多いようである。
人間の心は根底に利己心を持っている。利己心とは肉体生命を維持継続することを要請するものである。社会機構が根底から転換するような時代には世の中は混乱し、人々は不安に駆られ、おのずから確かな世界を求めるように成る。これが動機となって抽象空間に確かな世界像を作り上げようという知的努力が為され、その成果が思想となって世に提出される。これは肉体生命を確かに維持しようとする利己心の働きと見ることが出来よう。他方、利己心は物欲支配欲となる。社会の混乱に乗じて自らの欲望を実現すべく、巧みに論理を操って人々を扇動し、権力を手にすることを正当化する思想も出て来る。思想は物的世界に関わるものであるから、矛盾律排中律を原則とした粒子型論理に則って組み立てられる。思想を理解する時、その論理的展開が注目されるが、論理を点検する前に思想家に思考を促している動機を見極める必要が有る。動機が有ってその後に思想が有る。動機を見極めることが出来れば結論に向かって行く論理の筋道が見透せる。動機を見ずに思想の論理的展開のみを追い掛けていると、気付かぬ中に誤った行動を思想家に唆されることにも成りかねない。
ところで、私達の心は生命の本性を核として与えられている。心は生命そのものの意識を核として秘めている。利己心は外側の物的世界に向かって肉体生命を維持しようとするが、利己心の奥には喜びを他と共有したいという生命そのもの意識が秘められているはずである。抑々、意識は波動の構造を持っている。粒子型論理は矛盾律排中律に則って事を一つに確定しようとするが、波動は一つに確定できない。人の心は一つに確定しようとしても必ずはみ出る部分が残る。一つの定義には収まらないのだ。人と人とが互いに理解し合うのは、言葉の定義を明確にすることに依るのではなく、心の共鳴に依る。粒子型論理では波動の構造を持つ意識を捉えることは出来ない。矛盾律排中律では生命の智恵を表現できないのだ。だからこそ真の智恵は喩え話や格言等によって表現される。敢えて論理的に表現しようとすると、却って矛盾した表現に成ってしまう。色即是空、非一不二、等である。
真の思想と言われるべきものは、そのような知恵を秘めて生命そのものを物的世界に表現しようとするものであろう。物的世界の課題を解決しようとするものであるから表現は粒子型論理に則ることに成るが、だからこそ思想の本領を見極めるに当たって、論理的展開を追う前にその思想が秘めた思想家の動機を見極めることが重要になる。
私達の前に提出されている思想の中で、いったいどれが真の思想と言えるのであろうか。