歴史の時間(物的時間、心的時間)Time in History
人間の成り立ちを考えてみよう。先ず生命が有る。生命は霊と言ってもよい。霊の働いた姿が生命である。生命は波動であり、波動の次元を下げながら生命は物質を作った。その物質で形を作り、その中に核として生命の本性を挿入した。その核は生命の息吹であり、それを魂という。肉体は器であり、核として魂を蔵している。これが人間である。生命は人間を手段として物質に働きかけ、物質世界に生命本来の姿を現そうとしている。それは調和であり歓びである。私達は活動する時、自らの中に生命の息吹を感じ、それを心という。
これは一つの物語である。しかしこう考えてみると私としては心というものが腑に落ちるのである。真実を言い当ててはいないとしても、真実への一歩を踏み出すものではあるだろう。これが物心二元論の基本的な人生観である。分かり易く約めて言えば「心が身体を動かしている」。
さて、物心二元論に基づいて時間について考えてみよう。普通に考えると、時計の針が一秒一秒進んで行き、それを集積したものが時間である。これは物的時間である。これとは違う心的時間が有る。記憶の時間である。子供の時に体験した出来事の喜びは、後で思い出しても、今実際に体験しているように蘇ってくる。記憶の上に新たな記憶が重なって、物的時間では古い記憶として深層意識に仕舞い込まれたとしても、その出来事を思い出す時には、その記憶は最上層の現在意識に働きかけて来る。過去の出来事は、物的時間では過去完了でも、記憶の時間では現在完了または現在進行形で心に迫って来る。人生を左右する大きな体験をすると、その記憶が多くの別な記憶の中に埋もれて深層意識の中に隠れてしまっても、その出来事に付随した感情は無意識裏に現在意識に働きかけ、当人の人となりを形成することに貢献する。こういう事情は実際に体験したことではなくても同じである。民族の言い伝えや宗教説話などは、記憶として心に刻み込まれると、体験の記憶と同じように現在意識に働きかけて来る。更に思想も同じで、ある思想が自らの生き方を支えるべきものとして記憶に刻み込まれると、それは動機を形成し現在意識を拘束してその人に行動を要請する。記憶された思想は、当人がその思想を手放すまで、現在進行形で効果を発揮する。記憶の時間は進まないのだ。私達は止まった心的時間の中で生きていると言える。
ところで歴史を見る時、今は唯物史観が優勢で、歴史の中で起こった出来事の物的側面を強調する。しかし歴史は人間が活動し創るもので、その人間を動かすのが心であってみれば、歴史を創る人間の心を合わせ見なければ真に歴史を捉えることはできない。唯物史観は歴史の片面しか見ていないと言える。
今、世界は民族紛争、宗教紛争が多発して危うい状況にある。争う当事者の心的時間は大昔から頑として固定され、一秒も進まない。意識はさながら記憶の時間に埋没している。とりあえず平和を維持するには物的な軍事力の均衡によるしかない。しかし根本的に解決するには当事者達が自らの心的時間を進める必要が有る。心的時間を進める術はあるのだろうか。抑々、心的時間を進めるとはどういうことか。
心的時間が進まないのは何故か。実は、記憶の時間を止めているのは記憶しているその人自身である。東洋では昔から心の時間を考究して来た。仏教の重要な課題の一つは、記憶の時間を進めることである。「煩悩即菩提」、これは心的時間を進める心の変化を表現したもので、この変化を実現する契機となる知恵が「色即是空」である。煩悩の空なることを覚って菩提を得る。時計の針は煩悩から菩提へと進み、煩悩は克服されて過去となる。日本には「水に流す」という言葉が有る。心的時間を進める知恵だ。古代ギリシャでは「汝自身を知れ」と言われた。これも心的時間を進める知恵である。しかしここで考えているのは個人の心的時間を進めることで、個人の心的時間とは別に集団としての心的時間が有るようだ。一個人が記憶の時間を進めても、国民、民族としての心的時間は動かず、時計の針は争いに固定されたままである。その針を進める方途や如何に。