禊の呼吸法: 心を清浄にする呼吸
呼吸法について「日常の呼吸」、「静坐法で平静な心」と、二つ文章を投稿しました。ここにもう一つ「禊の呼吸法」を投稿して、呼吸法についてのまとめとしたい。
さて、「静坐の呼吸法」は、鼻から息を吐いた。これを鼻ではなく口から吐き、最後に少し顔を俯ける。吸い終わる時には顔を戻す。それ以外、腰の構えや息の吸い方などは「静坐の呼吸法」と同じにする。口から吐く時、「日常の呼吸」で述べた、柔軟体操としての呼吸法のように「ハァー」と喉元で音がする。但しその音は落ち着いた静かなものである。吸う時も初め「スー」と静かに鼻で音がする。これが「禊の呼吸法」である。(「日常の呼吸」、「静坐法で平静な心」を参照願います。)
何故、禊と言うか。実際に口から吐いて、心の状態を観察してみよう。「ハァー」と静かに口から吐いてみる。果たして吐いて入る時、ものを考えられるだろうか。簡単な例として、たとえば、「3+4」を「ハァーと吐きながら計算してみよう。出来るだろうか。「7」と答えを出すには瞬間的にでも口から吐くのを止めねばならないだろう。詰まり、口から息を吐いていると、心では思い計らいが出来ないのだ。よく聞く話であるが、瞑想する時「雑念を払う」と念じながら「雑念を払う」という雑念をもう一つ生み出してしまう。しかしこの口から吐く呼吸法ではそういう心配はいらない。敢えて意識を呼吸に集中せずとも、呼吸以外のことを計らうことができないのだ。これが口から吐くことの大きな意味ではないだろうか。この口から吐く呼吸法は、心に固着している凝りを呼吸によって吐き出そうとするものと言ってよい。心の歪み、執着は呼吸の歪み、凝りとなる。例えば、心に怒りを持つと、それは語気に現れ、呼吸が荒れる。怒りが内攻すると呼吸の凝りとなる。これは目つきや姿勢の歪みとなって現れる。この凝りを「ハァー」と吐き出すのである。普通、心の問題は心で解決しようとする。しかし実際にはそれが難しく、悩みが重なって来る。そこで、心と一体である呼吸を正常に戻し、心の問題を解決しようと試みることになる。その初めの一歩が「禊の呼吸法」である。この一歩が大事なのだ。
柔軟体操としての呼吸法は肺にたまった汚れを吐き出す。肺の大掃除であり、深呼吸である。「禊の呼吸法」は呼吸の深いところに固着している凝りを吐き出す。呼吸を芯からきれいにしようとする。そして「静坐の呼吸法」、「静坐法」で心を鎮める。
一、「呼吸法」で呼吸の大掃除をし、
二、「禊の呼吸法」で呼吸の凝りを取り、
三、「静坐の呼吸法」、「静坐法」で心を鎮める。
呼吸への取り組みは、「禊の呼吸法」を根気よく丁寧に実習するのが良いだろう。これが身体に馴染んで来たら、少しずつ静坐を試みる。こうすれば間違いはない。私は座禅をしたことはないが、人の話を聞いたり、座禅に関する本を読んだりすると、そうそう簡単に悟りは来てくれないようだ。勝手に、悟ったと思い込んでしまうのがせいぜいなのだろう。静坐が最終的に目指すものは平静心。曇りのない心である。有りのままに物事を見て取れる、有りのままに自らを知る。それが平静心である。これを自ら巧んでやろうとすると、知らず知らずに利己心に誘導され、単なる自己満足に陥ってしまうことにもなりかねない。だからこそ「禊の呼吸法」をよく実習し、呼吸を清浄にしてから、静坐法に取り組むのが良い。平静心は遠い目標であるが、一歩一歩、たゆみなく進んで行こう。
付記:呼吸法というと、往々、丹田を充実させるとか、肚を据えると言ったことを目標にする。人間としての重さを求めると言ってもよいだろう。しかし重さを求めると、呼吸の仕方としては、鳩尾を落として腹圧をかけるようになる。結果、内臓の位置を保ち背骨の立ち上がった姿勢が崩れる。それは呼吸を滞らせ、心は何事についても拘るようになる。求むべきは、事に当たって適切に判断し、必要な時には素早く動ける心である。それが平静心。平静心は重くない。軽ささえ感じさせる。「据わる」という表現は重さを感じさせるが、肚が据わるというのは、腰の構えが定まるということで、これが素早い動きを支える。重さではなく、芯の確かさをこそ求めるべきである。