利己心と歴史の真実

 この世に人間が居るのは何のためか。たまにはそんなことも考えてみよう。こんな考え方はどうだろう。宇宙を創る普遍的な力である生命が、物質世界を豊かで調和有るものにすべく、その担い手として人間を創った。何やら神話のようであるが、そもそも人間にはこの問題に正しい答えを出せない訳だから、とりあえずこのように推測してみよう。物質に働き掛けるには物質的な力を以てしなければならいため、物質で肉体を作りそれに生命の本質を担った魂を籠めた。それが肉体を駆使して物質世界を豊かで調和したものにすべく活動する。こうして肉体生命たる人間がこの物質世界に生まれた。ここから人間にとって、肉体を維持することは基本的課題となる。更に肉体を物質世界に継続して有らしめることも要請される。魂の働いている姿が心であり、心は肉体生命の維持継続を基本的に要請される。その要請を表現すが利己心である。しかし物質で作られた肉体に心が囲まれているため、肉体が他の肉体と分離するに伴い、心は他の心と互いに分離されることになる。ここに自他分離が起こる。そのため肉体生命の維持継続は、まず自らの生命を維持継続しようとすることになり、肉体生命が抱く心の根底に自己を最優先にする利己心が据わることになる。人間は心が身体を動かしており、心の望みである動機を実現するべく行動する。生命の維持継続は物慾支配慾という動機になる。これが自らの利益のみを追求する利己心の姿である。利己心は互いに争い、自らの慾を阻まれることから邪念が生ずる。邪念は邪念を生み、これが極まって殺し合いとなる。こうして止むことのない不幸が繰り返される。これが歴史を貫いている原理ではないか。数千年を経て尚この原理は変わらない。変わったのは人殺しのやり方でしかない。

 このように考えてみると歴史が腑に落ちないか。心が身体を動かし、身体を動かして歴史が作られて行くのだから、歴史に心を見なければ真に歴史を理解したことにはならない。歴史を学ぶということは、心を学ぶということに収斂していかねばならない。

 心は、顕在意識、潜在意識、深層意識と言われるように重層構造になっている。五感に対応する意識が心の最表層に有る。それは物質に相応する意識であり、物質である肉体に相応する意識である。従ってその意識の層は利己心を根底にしていると考えて良いだろう。世界の根底に物質を据えようとするのが唯物論であるから、唯物論を支える意識は利己心を根底にしていると考えて良い。水中を泳ぐ魚は水の存在に気付かないように、利己心の中に生きている唯物論者は自らの利己性を自覚しない。利己の中でのみ他者を理解しようとするから、奉仕も利己に見える。こうして唯物論から出て来る世界は、自他が分離し利益が対立して争いの続くものとなる。

 近代の西欧で唯物論が普及したことには自然科学の発展が大きな力を及ぼしたと思われる。自然科学の根底に有る論理は矛盾律、排中律で、これは物質の基本的性質を抽出したもので物質の世界の論理である。しかし心にはこの論理の基準は適用されない。喜びと悲しみが同時に一人の心には有り得る。心は相矛盾する感情を持つことが有る。矛盾しているからその心は間違っていると言っても始まらない。それが事実なのである。心が働いて歴史を創る活動を引き出すのだから、心を無視して物質世界の論理のみで歴史を理解しようとしても、それは無理である。

 表層の意識を支える利己心の奥には生命本来の姿が隠されている。共に歓び、歓びを共にして更に歓びを大きくする。これが生命本来の姿ではないだろうか。争いは生命本来の姿ではない。唯物論は対立を歴史の原理と言うが、それは利己心を歴史の原理と言っていることである。利己心の中から歴史を見れば、そこに対立しか見ないのは当然であろう。私達は生命本来の姿を物質世界に現すことを考えるべきである。生命本来の姿を覆い隠している利己心を浄化して、本来の姿がこの利己心を透過して物質世界に現れるようにする。

 先ずすべきことは利己心を治める術を会得することである。しかし利己心を治める知恵は既に歴史の中で提出されている。
 『汝自身を知れ』、『人にせられんと思うことを』、人に施せ』、『怨みに報いるに、徳を以てせよ』、『身を捨ててこそ』、・・・・・・・・。

 私は呼吸法が利己心を浄化することに貢献できることを願っている。「気付きを開く呼吸法」「静坐の呼吸法」の目指すところは、利己心の浄化である。
 しかしこれを実現するのは至難の業。そんなことをしている中にも利己の歴史はどんどん先へ進んで行く。ただ以上の考察で、歴史を判断する時の基準が見えたと言えるだろう。唯物論は世界の表層のみを見たものであり、その奥に生命本来の世界が有る。世の中の動きを見るに当たって正しい方向を見失わないようにすることは重要である。