親指と人差し指を付けた輪(上列の中)を相当の力で引き離そうとしても離せない。確りとくっ付けている訳ではないが実はきちんと付いている。

 杖や剣を持つに、確りと持たねばならぬと思い、小指を締める。その時呼吸が締まる。逆に呼吸を締めて持つとしっかり持っていると感じる。これを私は「やった感」と言っている。一方、例えば小筆で字を書く時には小指では持たない。親指と人差し指で筆の軸を摘まむように挟み中指を使って筆を動かす。ここでは確り持ってはいない。しかし確り持っていないと字は書けない筈である。実は確り持っているがやった感が無いのである。詰り、確り持つことと、確りと持っていると感じることとは別の事なのである。

 私達は「やった感」を得ると現実にやったと思い込む。しかしやっている筈なのに成果が得られないという事が起こる。事を行うには身体を動かさねばならないが、強張っていては思うようには動けない。やった感は息を詰め身体を固める。だからやった感とやるべき事とは逆方向を向いているのである。スポーツでも物を持って行う場合、確り持っていると感じながら身体を動かそうとする。これではやった感とやるべき動きがぶつかって身体を思うように動かせない。そこでリラックスと言う。これは一方で息を締め、他方で呼吸を緩めようとする訳だから難しい話である。リラックスとは筋肉の問題ではなく、呼吸を緩めることである

 「やった感」は身体に限らず心理的な事でも同じである。考え、試行し成果を求めて努力する時も、努力しているという感覚、詰り「努力感」を求める。この努力感を感じながら事を試行しなければ成果は得られないと思い込んでいる。しかし身体の場合と同じように、努力感と成果は別である。ここで努力しても成果が得られないという事が起こる。しかし努力感は息を詰める。物事を考えるには当然脳細胞に大量の酸素を送らねばならないが、ねじり鉢巻きでは良い考えも出て来ないだろう。さんざん努力して頭も体も疲れて呼吸が解放を求める時、脱力感、虚脱感に襲われる。ここで心理的に落ち込むことになる。しかし呼吸が回復するとまた気を取り直して努力を再開する。こういう経過を人間の可能性の問題にしてしまわず、呼吸の問題として見ると、あたら可能性を潰してしまうことも少なくなるだろう。

 須らく呼吸は障りなく通っていなければならない。何かに思い悩んでいて、その問題が解決した時胸の閊えが取れたように感ずる。この時の呼吸が通る呼吸である。丹田呼吸は服圧を得る為に息を肚に籠める。これでは呼吸は通らない。腑抜けはまずいが息を肚に籠めると気も籠る。また鳩尾を落とすといきは腹に淀む。更には、上体の力を抜き小指を握ると息は下腹に籠る。息が籠る身体の構えをしながら呼吸を籠めない、詰り努責に成らぬようにせむとする所に丹田呼吸の難しさがある。身体のやることと求める呼吸がぶつかっているのである。

 心の禊としての呼吸法について考えてみよう。姿勢の要は、仙骨を両横から留めることである。崩れないように締める訳であるが動かないまでに固定してしまうと身動き取れない。筋肉を締めて固定するのではなく、留めていると意識する、詰り念を使うのである。そうすると筋肉がおのずから働いて仙骨を留めるように出来る。
 次に胸襟を開いているのが呼吸法の基本的要件であることを確認しよう。胸の閊えが取れている。吐き方は姿勢を維持しながら上体の力を抜く、詰り胸襟を開く。そうすると腹部、肚で呼吸するようになる。ここでまた念を使う。腹筋を上手く働かせて息を吐くというより、肚を両横からゆっくりと圧縮するように意識するのである。そうするとおのずから肚が両横から締まり息を吐くようになる。(上下に圧縮しようとすると息が籠る。)吸う時は肚を緩めれば良い。ここで仙骨を抜かないように気を付けよう。肚を緩めると言っても脱力する訳ではない。脱力すると鳩尾が落ち仙骨が後ろに抜けてしまう。
 これが呼吸法のやり方である。しかし心の禊としての呼吸法を考えると、それは自らに語り掛け、自らに耳を傾ける呼吸法である。そのように念じながら呼吸法を実際にやってみると、語り掛けの思いと肚を両横からゆっくりと圧縮する呼吸とが一致するように感ぜられるだろう。

 念は身体を動かす力を持っている。身体や心を動かしめる力を持った思いが念である。意識的に筋肉を動かさむとすると息を詰めてしまう。これでは呼吸力を使えない。やらむとする動作を念ずる、詰りその動作を内的に感じるのである。分かり難い説明であるが、そのようにして身体を動かす時呼吸を逼迫させずに動ける。この時働く力が呼吸力である。

 念が身体を動かす。これを一歩進めると、念が思考を動かすということも納得して頂けるのではないか。これが私の言う合理主義的思考の原理である。思考も人間の行為であるからそれは動機による。詰り念が思考を誘導する。自然科学の思考は念に発しても実験で仮説を検証し真偽を判定するが、社会科学と称する学問では実験による検証が出来ない。過去の記録、数字で仮説を確認できるが、それは過去の話で将来の事実ではない。どうしてもそこに念、動機が介入してしまう。人生観、世界観が理論に反映するのである。

 市場経済の大前提は個人の利己的行動である。人は自らの利益を最大にするように行動する。他者の利益になる行動もそれが自らの利益に結びつかなければ行われない。その利己的行動を調整しながら社会を運営するのが民主主義である。自由とは抽象的意味は別として、個人の利己的行動を暴力を以って禁止されないことである。自由でない状態を考えると自由の意味が分かる。互いに他の利己を認めながら社会を運営して行こうというのが自由の意味であり、市場経済の競争原理を正当化する言葉である。
 当然であるが、独裁制、専制体制より民主制の方が望ましい。しかしそれは終着点にあらず。今の民主主義国を見れば分かろう。競争原理は心理的にはストレスである。常に勝っていなければならず、そのため呼吸は逼迫させられる。これが続けば当然呼吸の解放を求める行動が出て来てもおかしくない。具体的な現れ方はいろいろ有るだろうが、破壊的行動があちこちで見られるようになってもおかしくない。
 人間が自らの利己心を治めることを会得すべき時ではないか。これなくして戦争は無くならないだろう。呼吸合気がそのための一助に成る事を願っている。

付記
 言葉が無ければ考えられないと言う人が居る。ならば言葉が生まれる前の人類は考えていなかったのか。言葉はどのようにして生まれたのか。言葉がひとりでに生まれ出て来た訳でもあるまい。言葉の前に他に伝えたい想いが有った筈である。言葉の前の念である。
 人間関係が複雑になって来て言葉が増える。ここで人は言葉に幻惑され、言葉を前面に広げて念、想いを自らにも他者の目からも隠してしまう。ここに念、想い、詰り動機を内に秘めて動機を正当化する為の技術が生まれる。それが弁論であり、手の込んだ哲学、さらに思想となって行く。これが合理主義的思考の絡繰りである。

 ブルジョワ革命と言われるフランス革命で自由が叫ばれた。理屈が建てられたが、結局資本家の望む経済を実現する為の言葉であった。詰り資本家の思いを忖度した言葉だ。理屈の上で正当化すれば忖度は正しいものと成り、正当化出来なければ、或いは正当化しなければ誤りとなるのか。労働者の悲惨な生活を見て理屈を立た。平等を正当化し革命を行ったが違うことに成ってしまった。結果から見れば平等は革命家の権力欲を忖度した言葉だった。

 人は動機を正当化すべく思考する。この絡繰りは日常あちこちで見受けられる。政治の場面に顕著である。誰もが思い当たるだろう。所謂、歴史問題はその最たるものである。また近頃は忖度、忖度と役人を非難するがその非難は何を忖度して行われるのだろう。真剣に働いている政治家や役人は多く居るはずだ。

 言葉は念、想い、動機を表現せむとする。これが言葉に貫通している基本的、原始的原理である。