生物としての人間にとって生命の維持、継続は最も基本的な要請である。人間が社会を作り、社会内での立場が出来て来ると、その立場と肉体としての人間が意識の中で一体化し、自己という観念が出来上がる。ここで肉体生命の維持という要請が自己という観念の維持に転換される。高い地位に着いた人がその地位を失うことを死と意識するようになる。自己の維持、継続の要請が利己である。利己心は肉体生命維持の為に衣食住を求め、自己の維持発展の為に権力を志向する。詰り、富と権力が利己心の基本的対象となる。こうして争いが人間の常態となってしまった。しかしそうとすると人は死ぬまで争いから脱却できない。

 人間の利己を認めた上で争いの無い社会を作ろうとして出来た政治制度が民主制である。各人の利己を前提にしながら争いが起こらないようにその利己を調整して社会を運営しようという政治制度である。それに対応した経済体制が市場主義経済である。利己を野放しにしてしまうと物の争奪戦が起こるから、法的にそれを避けながら各人の利己を実現しようとする経済である。当然、独裁体制より民主制の方が望ましいが、それでも民主制、市場主義経済は利己を前提にしている以上、争いは避けられない。近頃は社会が大きくなり世の中の仕組みが緻密になって制度的に利己を調整するのが難しく成って来ている。犯罪が多くなっている。

 私達は制度的に利己を調整しようとするより、自ら利己心を治めることを学ばねばならないのではないか。利己心は肉体生命の維持に発しているのであれば、私達は生命を放棄しなければ利己心を払拭出来ない。詰り死を覚悟しなければならない。これは簡単に出来ることではない。出来ることは、利己を認めた上で利己を治めることであろう。その方法、指針は既に古来より提示されている。

  汝ら人に為られんと思ふ如く人にも然せよ。(聖書)
  己の欲せざる所、人にも施すこと勿れ。 (論語)
 

 利己は人間存在の根底に居座って執拗に人の心を追って来る。人に何かを施す時、その利他的行為の裏で人の称賛を求める。施しを繰り返している中に利他的行為が利己的行為に転換してしまう。これを嫌って真剣に悩んだ人も居た。しかしそのために利他を控えるならばそれは更なる利己であろう。これに対する指針もすでに提示されている。

  汝は施しをなすとき、右の手の為すことを左の手に知らすな。 (聖書)
  為して恃まず。功成りて居らず。 (老子)

さらに言えば、

  汝の頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。 (聖書)
  怨みに報ゆるに、徳を以てする。 (老子)

 ここまで来ると常人の域を超えている。キリストは他の頬を向けて磔にされ、ソクラテスは徳を以って応じて毒を飲んだ。これは霊界の話と言うべきか。利己の愚かさを象徴する出来事である。
 私達は利己の悲惨、愚かさを想い、利己を治める努力をすべきであろう。