意識の表層は五感の世界であり、そこは物的世界であるから粒子型である。そこでは論理が適用される。しかしその論理を奥で操るのは動機の想念であり、それは波動型である。合理主義的思考態度では論理が表面を覆い、動機が見えなくなっている。というより動機が論理的思考を誘導しながらその動機に自ら気付かない状態を合理主義的思考態度と言うのである。こういう態度で対立する動機を持った二人が議論しても、とても結論には至り着けない。動機の対立を解消しなければ論戦は終わらないのだ。
聖徳太子は「和を以て貴しとなす」と言った。動機の対立を解消することを求めた言葉である。その為にこそ自覚(気付き)が必要なだ。日本の文化は動機を見て来た。明治維新の無血開城は当事者の動機が直に向き合って実現したのである。また日本人は忠臣蔵が好きであるが、赤穂浪士の動機に感動しているのである。日本の文化は波動型である。論理は粒子型世界に通用するものであるから、日本人が論理を不得手とするのは当然である。現代世界は粒子型の文化が通用しているからそれに適応しなければならないが、日本人が培ってきた波動型文化を見失ってはならないと思う。
さて、論戦ならまだ良い。武力を以って対立するのが歴史の現実である。心ある人はこの対立を収める方途を捜しているが、未だに見付けられないのが世界の現状である。
自覚(気付き)とは自らの動機に自ら気付くことである。人は自分の鏡であるという言葉がある。「人の振り見て我が振り直せ」と解釈されるが、別の見方もある。例えば言葉の通じない人が何かを私に訴えて来た時、自分を相手の立場に置いてみて自分の感ずる所を相手に映し、それを相手の気持ちと想像し対応するだろう。相手に自分を映しそこに見える姿を相手と想う訳である。でも実は自分を見ている。言葉の通じ合える相手も同じで、相手と想っているのは実は相手に映った自分の姿である。詰り人は鏡。これが対人関係で生ずる誤解の絡繰りである。相手と想い込んでいる自分の姿に気付くのが自覚であるとも言えるだろう。相手に映している自分の感情に気付くのである。自己というのは人間が社会を作りその中で出来上がった人間関係での立ち位置を肉体的な自分と一体化させて出来上がった観念である。従って自覚とは他覚でもある。自分に気付くと相手も見えて来る。波動で表現すると、深い層の波動に意識を同調させ、気付かれずにいた自分の想念を直接見ることである。
集団の心理を波動で考えてみよう。集団は網でありその結び目が個人である。その網に波が流れている。個々の結び目がその波に同調して振動すると共鳴が起こり網は大きな唸りを作る。多くの人が似たような感情想念を抱いていると、その波が重なり合って大きな唸りを作り社会的現象を生み出す。そでは集団組織全体が一個の個性を持った人間のように見える。誰もが同じことを言い同じことをやる。こうなると自覚(気付き)は不可能になる。自らの意識に気付いてもそれを潜在意識の中に隠蔽しひたすら集団に同調する。集団リンチというおぞましい出来事はこうして起こるのだろう。集団の指導者が強い想念波動を発しそれに大衆が同調して社会的騒乱が生まれる。これが文化大革命やポルポト政権の行った悲惨の心理的真相だろう。唸りが収まった時、自分のした事を直視出来るのだろうか。それとも記憶を潜在意識の奥にしまい込んで顧みないのか。
集団の唸りは個人が同調しなければ生まれない。個人は波動の受信機であるが同時に発信機でもある。個人は一方的に集団の想念波動に同調するのではなく、自覚を得、集団想念の利己性に気付き自らの波動を発することが出来る。一個の発信は小さいがそれが幾つも重なれば唸りは小さく出来るだろう。その意味で、自覚(気付き)は足元から始められる平和運動である。歴史を見る時私達は指導者に注目するが、指導者に同調し現場で実際に事を行う人間も見るべきではないか。文化大革命の現場は理屈で正当化出来るものではあるまい。歴史の現場は情動の世界であろう。
西洋はひたすら外的世界に目を向けて来た。自然科学を打ち建て、科学技術を以って世界を先導している。合理主義的思考態度の一つの成果であろう。古代ギリシャのソクラテスは立論と動機の関係を分かっていたと思う。弁論家の動機を明らかにしようと一問一答の対話をした。しかし近世には合理主義的思考態度が確立され、思弁を事としていくつかの哲学を打ち建てた。フロイトに至って漸く西洋文化は心の重層構造に気付いたのである。今は合理主義的思考態度に疑問を向けているようである。対して東洋は人間の内面に注目し、人間心理の重層構造には古くから気付いていた。仏教では4世紀、既に阿頼耶識と名付けて所謂潜在意識を確認している。禅も独特のやり方で心の重層構造に取り組んで来た。洋の東西を問わず人間心理に共通する課題が自覚(気付き)である。精神的治療法の中心は自覚であり、禅が目指している所は自覚であろう。
もし呼吸合気が自覚(気付き)を得る為に何らかの役に立つならば、大変嬉しいことである。