利己心の克服・霊的知識
私達は利己心と聞くと何か悪いもののように思ってしまう。利己心とはいったい何なのだろうか。人間は肉体を持って生き、生命を維持し継続して行かねばならない。その為に人々が集まって生産し流通を図り、物を食べて家を作り生活を営んで行く。そこに地域ごとの集団が生まれ、集団が互いに接触するようになるとどうしても諍いが生ずる。食物の確保が原因で争うことにも成る。集団はそこに属する人々を組織し形を整え、その上で互いに戦うように成る。これが歴史の始まりでしょう。集団はその維持継続を求め、ここに利己心が生まれることになる。そこでは個人と集団は一体化し、個人という観念はまだ生まれてなかったのではないだろうか。その後集団の組織が出来上がって行くにつれて各々の人の立場が確立され、肉体としての自分とその立場を一体のものと意識して個人、自己という観念が出来上がったのではないだろうか。だから個人とは他から全く独立したものではなく、集団の中の個人である。文明発祥の時代には個人という観念は、少なくとも現代よりは希薄であったでしょう。
民主的と言われる社会では個人が強調される。この民主主義が確立されたのは西洋の近代である。中世ヨーロッパではキリスト教が人々の心を支配し、人は神(聖書)に基いた価値観の中で考え行動しなければならなかった。それに対して近代に個人という概念を確立し、その属性としての自由、平等、独立を根拠にして西欧文化は民主体制を打ち建てた。それが今に続いている。日本では明治維新以来、欧米の文化を取り入れて来て今では個人を強調するようになった。行き過ぎて我儘、自分優先の傾向さえ見受けられる。しかしよくよく自分の内を振り返ってみると、そこに自分が日本人であるという意識が潜在しているようである。オリンピックではおのずから日本を応援する。外国に行って初めて自分が日本人であることに気付かせられる。私たちは先ず日本人であり、その次に個人が来る。日本は海に隔てられ歴史的に外国との接触が少なく、民族の問題にはあまり縁が無かったが、外見ながら民族や宗教の問題を見ると、そこに居る人々に共有されたした一つの「集団の自我」とでも言えるようなものが在る様に見える。大昔に人々が集団と成って争っていた時とあまり変わりない様相が見えるように思う。自己という観念に五感で捉えられる実体が無いように、この集団の自我にも確たる実体は無い。しかし強力な影響力として集団に属する人々の深層意識に共鳴ているのではないだろうか。その集団の自我は自らの維持継続を追求し、極めて利己的に考え行動する。集団の基調は利己主義に成る。その集団と個人を一体と感じ集団に殉ずるということも行われる。これは民族宗教に限らず国家間の紛争にも見られ、国民は国の為に勇敢に戦った軍人を殉教者として称えて来た。戦争に関しては反対する国民も居るが、そういう人も含んで集団の自我というものが在るのではないか。日本に於いても戦国武将が、その行動は殺し合いであるにも関わらず、称えられる。日露戦争辺りまではそれが続いていた。乃木神社まで作られている。それが大東亜戦争になるといきなり通用しなくなる。或いは満州事変辺り以後に限って否定される。敗戦を機に日本の「集団の自我」がクルリと向きを変えたしまったようである。(戦争を奨励しているのではなく、日本が自らの足で立って自分の目でものを見考えることを取戻そう、と私は言いたいのです。)
「集団の自我」なるものが在るかどうかは分からない。しかし在るとしてもそれは群集心理とは違うもっと深い意識層の想念である。それには未だ光は当てられていない。戦争は集団同士の戦いで、その戦いを強要しているのが利己心である。世界に見る民族や宗教の争いには想像を絶する程に深い心の源があるように思われる。集団の自我にも記憶が在るならば、それは南百年、何千年の積み重ねである。民族宗教の問題を俄かに解決することなど及びも着かない。心は波動の構造を持っている。私達は意識の表層を自覚するが、それより深い意識の層に厚く集団の自我の想念が在るのだろう。五感に相応した意識が最表層に在り、論理的思考はそこで行われる。論理の基本は矛盾律、排中律であり、それに因果律が加わる。これは物質世界の構造を抽出したものであり、基本原理は分離である。これが粒子型の思考法である。表層意識の下に多くの意識層が重なって深くなっている。この意識は波動の構造を持ち、基本原理は共感である。波動の基本的な特性は重ね合わせが出来るということであり、それは矛盾律排中律とは相容れない。共感の原理に基づいた社会を作らなければ平和は得られないだろう。今は粒子型の思考が意識を覆って共感が表に出て来れない。共感に基いた社会を内心では誰もが望んでいながら、政治経済、安全保障に追い立てられ、視線を強張らせて不安を抱きながら行方も見分けず進んでいるようである。
肉体生命を意識の中で「集団の自我」という無意識な潜在的観念に転換し、その維持継続を求め、更に集団の中に居る個人的な自己という観念が意識されて、私達が今言っている利己心と成った。そのように考えられる。そうなると利己心は肉体生命に源を発していると言える。詰り利己心の問題は善悪の問題ではなく、肉体に関する物理的問題ということに成る。従って利己心を根本から克服するには、道徳的方法を講ずるより、肉体の物理的な死を受け入れる方が良い。しかしこれでは肉体の存在そのものを否定することになり、肉体生命の意義目的は無に帰す。何の為に私達はこの地球上に生まれたのか、こんな疑問にぶち当たる。
ところで、霊界では肉体生命の死後にも生命が継続し行くことを人間に広く知らせようという活動が展開されている、と言われている。死後の生命とその個性が継続するという考えは特別変わったものではない。日本では、漠然とであるが人は死後も魂として生き続けて行くと考えて来た。ただ魂と言うと、場合によっては幽霊とか祟りなどというおぞましいものを連想してしまう。或いは霊能力や予言、奇跡などが出て来るかも知れない。しかしそれは霊的知識の本筋ではない。奇跡や予言は肉体世界の苦しみから救われることに焦点を当てている。私達はいろいろな苦しみを経験する。昔は飢饉があり、そんな時にはまさに利己心の核心である命の危機に直面する。また愛憎に纏わる心の苦しみもある。しかしその苦しみの源を辿って行くと、利己心に至り着くのではないだろうか。物欲、支配欲、その形を変えた独占欲が心の内に見えるだろう。だから苦を根本から解決するには、この利己心を何とかしなければならない。
死後にも生命が継続することを当たり前のように納得出来れば、その人にとって人生の意味が変わる。死が全ての終わりではなくなる。死後も生き続けることに得心が行ったら、肉体に発した利己心を治めることが出来るだろう。肉体の耐用年数を過ぎれば、従容として肉体を退き、物質の向こうの世界で私達は生きて行くのである。向こうの世界とはより精妙な波動の世界で、五感で捉えられる物質世界を透過してしまう。私達の為すべきことは肉体を以て物質世界に働きかけ、豊かな社会を作ることである。自らの豊かさを求める活動が他者の幸せを促進する。そこに人は喜びを感ずる。それが心の自然である。利己心の仕事はそこ迄で、他者を不幸にして自らの富、権力を追求するのは利己心の越権行為である。
『 汝ら人に為られんと思う如く人にも然せよ。』 、『 己の欲せざる所、人に施すること勿れ。』
これが利己心を治める基準である。とうの昔に解答は示されていた。この言葉は共感を求めている。その為に『 汝自身を知れ。』と言われ、自覚が求められる。( 自覚の一助と成るのが「 呼吸法」であり、「 呼吸合気 」であると思います。)
このような霊界を含めた人生観を誰もが素直に得心できれば、歴史を作る原動力が利己心なのであるから、歴史は変わるだろう。川が流れる原動力は重力である。蛇行し滝と成り色々な景色を作りながら集まって大きな流れと成って行く。歴史の流れの原動力は利己心である。地域や時代ごとに色々な戦いを繰り広げ、規模を拡大しながら今に至っている。利己心は人間に課せられた最大の課題である。しかし肉体人間として生きて行く為に必要な心の働きが利己心であるならば、例えば厳しい修行をしてそれを完全に消してしまうということは出来ないだろう。利己心を解決するには、利己心を空ずる。空ずるとは利己心を認めながらそれに縛られないことである。利己心の軛を解く。それを得て初めて「集団の自我」にも光を当てることが出来るのではないだろうか。奇を衒った知識を探し求めるのは霊界研究の本道ではない。人生観の転換、これが霊的知識の要である。