息吹 Ibuki

 日本語に「いき」という言葉がある。漢字で「息」と書く。「呼吸」という言葉もあるが、呼吸と息は意味が少し異なるようだ。注意を集中して、指先で呼吸しているように観ずると、私達は指先で息しているように感ずる。厳しい冬が終わり、春が来て枝が芽吹く。枝が息を吹く。枝に命を感ずる。「生きている」が「息をしている」に通ずるように、息は単に空気の出し入れをすることではない。息は命を感じ取った言葉である。
 私達は心を置いた処で息を感じないだろうか。例えば、両手を前に差し出し、掌で毬を横から包むように支え、その毬が静かに息をしているように想う。そうすると、おのずから息を吐きながら腕は狭まり、吸いながら拡がるだろう。毬が息づいているという感覚が得られる。想いが対象に命を吹き込むのだ。これは人間の古い原初的な感覚であろう。それは心の奥で気付かぬ中に意識を誘導しているのではないか。

 今、毬を考えたが、代わりに言葉を考えることも出来る。言葉が息づいていると感ずる。人の想いが言葉に命を吹き込む。呪文というのは、言葉が得体の知れない力を持っていると考えて唱えられるが、その感覚は少々病的ではないか。唱える人の想いが籠められているから呪文は意味を持つ。呪文はまさに息吹である。念仏を唱えるのも同じであろう。ひたすら念仏を唱えることで来世に救われるという考え方は、今時理解しにくい。しかし、飢饉や戦乱の中、人の死を目の前に見る厳しい状況に直面し、念仏に想いを籠め必死に試みた人間の営みとして、念仏には謹んで頭を下げようと思います。

 言葉の意味は辞書に書かれているものだけではない。それは謂わば言葉の骸骨のようなもので、実際に使われている生きた言葉は、発する人の想いを負った息吹である。同じ言葉でも息の吹き込み方によって意味が違ってくる。言い方が違えば意味が変わってしまうのである。誉め言葉も籠められた思いが異なれば逆の意味を持つこともあり得る。書かれる言葉は発声する訳ではないが、やはり息吹であり、文脈を通して書き手の想いを表す。だから文脈が違えば全く意味が異なることにもなる。私が言う合理主義的思考も、言葉に論者の息吹を聞き取ることを分かってもらえれば納得できるのではないか。知的思考は言葉を論理的筋道、詰り文脈に沿って並べて行くが、その文脈は、正当な思考が作り出すというより、論者の想いが選び取るのである。結論の前に動機がある。

 自然科学でも論者は思いを論文に表すが、その結論の正否は実験で検証される。それが自然科学と自称科学の根本的な違いである。例えば歴史を見るに、それは自然科学とは全く異なる。実験は不可能である。過去を全く同じ状況で再現することなど出来ないのであり、試みたとしても、過去の再現であるという意識が既に条件を異にしている。歴史は人間の行動が作り出す。人間は動機に基いて行動するのだから、事件の奥に人間の想念を見るべきであろう。想念は重層構造を持っているのだから、見る層が違えば歴史は異なる様相を呈することに成るだろう。より深い層から見ると、歴史は利己心の表現である、という一言で終わってしまうかも知れない。ここまで言ってしまうのは極論であろうが、歴史を見るに当たって、自然科学と同じように物的な出来事ばかり追い掛けている訳には行かない筈である。そこに歴史物語の意味が有る。

 私達日本人は無意識の中に言葉を息吹と感じ取っているのではないか。この感覚は日本人の根源的な感覚であるように思われるが、どうだろう。日本の文化は波動型であると思う。日本人が論理的思考、詰り粒子型の思考になかなか馴染まないのも、ここに根本的理由が有るのではないか。日頃、私達は論理を見る前に、相手の動機、思惑を見ようとしないか。思惑が分かると論ずる前に話の筋が見通せるだろう。

 Words have meaning, but they are not just what is written in the dictionary. The living words used every day is responsible for the feelings of the speaker. We feel that words are breathed out carrying the thought with the will of the speaker. Even the same word has different meanings when it is uttered in different manner. It manifests itself in the breath of uttering words. Also the written words are not uttered, but express the will of the writer through context. It is possible that the meaning may be completely different, if the same word is fitted into a different context.
By the way, it is thought that the correct conclusion is reached through a logical context when discussing. But to tell the truth, the context is chosen up by the disputant. Man acts on a motive. Intellectual thinking is also an action and is motivated. A context is chosen to justify the thoughts and motives. The argument is the use of words, but what is actually taking place behind it is the conflict of motives. Therefor, the conflict of motives must be resolved to end the discussion. In order to do so, it is necessary for the disputant to be aware of his or her own motive. That is ” Know thy self ! ” .

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