因果と霊界

 私達は物事を考えるに当たって「何故そうなるか」と思う。その時既に、物事には因果の理が貫いていると前提している。因果関係を見ない時は「感ずる」と表現する。私達にとって因果とは日常生活と一体に成っている。
 物の世界を見、そこに物理的な因果律を見る。また因果の理は心の中の領域にも働いている。動機が因と成ってその果として身体の行動を生み出す。因果の理があくまで貫徹されると考えると、この世だけでは辻褄が合わなくなる。因果の理とは詰り因果応報である。人を騙してもお構いなしでのうのうと生きている人が居れば、理不尽に苦しみながら死んで行く人も居る。因に応じて果が生じそれが人生を貫いているなら、死後の世界を想定せざるを得なくなるだろう。因果の理は、物質の世界と心の世界、そして魂の世界、更に精妙な世界、これらを包含した霊界で貫徹しているのではないだろうか。普通はここまで考えを詰めず、適当に目を背けて済ましてしまう。因果の理はあまりに深刻なのだ。

 人間の意識は重層構造に成っているが、原因と結果の関係はいくつかの意識層に跨っている。下の層の想念が上の層で肉体的行動を生む。そしてその行動の結果がまた下の層に想念を生み出す。更にそれがまた行動に結び付く。下の層よりさらに深い層に在る記憶が上の層に妄想を生むということもあるだろう。このようなことを繰り返しながら意識は流れて行く。ここで働く因果の理は、当然、機械的に働く物理的因果律ではない。感情や価値観が一つの重要な原動力となる因果であろう。合理主義的思考は、動機の意識層と五感に対応する表層の意識層に跨る因果の表れで、動機が因で議論が果である。

 人間には自由意思が有る。それが動機と行動の間で具体的な選択をする。しかし現実に現れた行動の結果には、選択の余地無く因果の理が働く。その経験を通して私達は人生を学んでいく。

 因果の理を物的側面から見て、物事は空であるという。目前の事物は因果の理に従って生起して行き、そこに実体は無い。色は即ち空である。しかしこれは理屈だ。色即是空の意味は心の転換である。色とは心が拘り握り締めたものであり、その手を放して空と成る。目の前のものはあくまで在り、心が拘らなければ唯そこに在る。意識層を跨る因果の理に気付き、手を放して空が腑に落ちれば心が開ける。これを煩悩即菩提という。
 この気付きは何処から来るのだろうか。ふと気付く、閃きが走る。これが気付く体験の端的な表現であろう。内から来るというより、外から来る。ここに所謂守護霊、指導霊による時機を得た指導が予想される。

 霊能力などという特殊なものから離れて因果の理、因果応報を考えてみると、霊界、守護霊と言われるものの存在に肯定的な結論が得られるようである。しかしここまで考えて来たことは霊界、守護霊についての必要条件である。有限な人間の思考が出来るのは此処まで。更に進む一歩は信仰であろう。それは百尺竿頭更に一歩を進め底なき淵に身を沈める心境か。信仰は一つの公案である。

 ところで、私達はとかく未来に向かって因果応報を求めるが、因果の理が人生を貫いているとすれば、過去から現在にも貫いているはずである。このことに気付くと、将来に向かって甘い見通しを抱くより、改めて自分に向き合う気にもなるだろう。自分の現状は過去の結果である。しかしそうなると或いは輪廻というものも思い浮かぶ。それは後の問題としよう。

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