色即是空
「色即是空」を考えてみよう。
色とは、在ると感じられたもの。空とは、働きをしないこと。だから色即是空とは、何かが在っても実はそれは何の働きもしない、と言っている。
箱があり、その中に強い力を蔵している。その力を感じて箱を意味のあるものとして意識する。しかし実はその箱は空っぽで中には何の力も無い、というのが色即是空。箱が無いと言うのではない。
色即是空は物事と自己の関係を言っている。「色」の要は自己であり、その自己とは、価値観と肉体を統合して担っているものと考えられた観念である。それは五感に捉えられるものではない。物事に悩むのは自己の担っている価値観に拘るのが原因で、その価値観は仮の物で実体がない、詰り空である。それを会得できれば煩悩から解放される。これが色即是空の主張である。
自己は存在しないと言ってしまうと人生の意味が無くなる。私達が喜怒哀楽を感じるのは事実であり、それを感じさせる働きを司る何ものかはあるだろう。五感では捉えられないが、働きは間違いなく有る。デカルトは「我思う故に我あり」と言った。日本ではその働きを主宰するものを魂(たましい)と言った。色即是空とは、魂が無いと言うのではなく、魂が働いて肉体上に現したその姿が、移り変わって行くもので実体は無いと言っている。
仏教は無を言いながら因縁因果を強調する。因果は現象の生起を発生順に並べて考えられる。だから仏教は、因果そのものは働いていると考えている訳である。ならばその因果を司っている何ものかはあると考えるのが自然であろう。昔インドでは有我説が主流で、それに対して釈迦が無我を唱えた。有我は自己への執着を生み、利己主義を助長して、人々の苦しみに無関心であった。それに対して釈迦は、無我を唱道し利他を勧めたのでしょう。だから無我は有我の悪弊に対して主張されたもので、虚無主義を唱道した訳ではない。
肉体に纏わる表層意識は利己心を底にしていると考えられる。利己心は、基本的には肉体生命の維持を要請するものであり、具体的には慾である。魂はその働きを表層意識に現す時、慾によって歪められ、その歪んで映し出された姿が「我」である。人はその我に捕らわれて苦しむ。これが仏教の人生観であろう。無我はその我を空ずることを説いている。
しかし、利己心が肉体生命の維持を要請するものならば、利己心を空ずるとは、肉体生命の放棄、詰り死を覚悟することに成るのかもしれない。しかし自殺しろと言うのではない。肉体生命を生きるとは、詰りは、慾を実現することである。「敢えて求むる勿れ」という言葉がある。慾に止まらず、その向こうから萌して来るものを生きようというのである。利己心を透過しその向こうにある意識に心を同調させる。これが空ずるであり、それが自覚である。
般若心経の要諦は「色即是空」であり、これは仏教の要であろう。とは言え、それはいくら知的な解説を積み重ねても腑に落ちるものではない。解説は補助であり、本当のところは経験を通して自ら会得するしかないだろう。