一休さん、 笑ってられない

 一休さんの頓智話に、屏風に描いた虎を縛るという話がある。夜毎に虎が屏風から抜け出して来て怖くて仕方ない。お殿様は一休さんに虎を縛り上げてほしいと頼む。承知しましたとばかり一休さん、庭に降り縄を持って構えてお殿様に言うよう、虎を屏風から追い出してください。お殿様は参ったとばかり大きく笑ったろう。いくら虎が迫真に描かれていても、それは本物ではない。画について色々と批評しても、その虎に実体がある訳ではない。

 思想というものは、なんらかの概念が実体を持って抽象空間に存在していると想定し、その概念を軸に論理的な筋を建てて世界観を展開したものである。思想を画に擬えれば、その画の主題が概念である。しかし概念は屏風の虎と同じように実体の有るものではない。例えば理性というものは、写生のモデルのように、思想を検討する人達の前に取り出して置くわけにはいかない。虎は取り出せないのだ。
 実際に虎という野獣が居ることを知っているから、屏風の虎は画であって実体は無いと分かるが、抽象的概念は現実に見たことがないので実体が有るか無いか分からない。偉そうな人が言うから多分有るのだろうということに成る。この辺の事情は、アンデルセン童話の裸の王様に似ている。王様の服は誰も見たことがない。しかし偉い人が有ると言うから多分有るのだろう。

 無いものに拘って、目が見えなくなり頭が硬直し身動き取れなくなるのを、無縄自縛という。人はよく抽象的概念についてこれをやる。悟性、理性、これで済ずに、純粋理性、更に、絶対理性とか。物事を整理して考えるに当たって、見透し易くする為の道具として言葉を考え出すのは良いが、作り出した概念を主にして世界観を建ち上げるというのは筋が違うのではないか。自由、平等、も同じく抽象的概念である。これらは概ね西洋来のもので、詰り、合理主義的思考の嚢中にある用語である。