「我」について Ⅰ(今の世界情勢を見て・覚書)

 

 第三次世界大戦の予感がする今、思う所を述べてみた。

 人類が地上に出現した時、人間は知的観念を持っていなかったと仮定してみよう。但し観念を作る働きは前提しておく。そうすると観念は人間が経験から獲得したということに成ろう。それでは人間はどのようにして「われ」という観念を得たか。しかし「われ」以前に基本と成る観念がある。それは「もの」である。そこで「もの」という観念を人間が得た時の原初的体験を想像してみよう。それは、例えば「樹にぶつかる」であったか。この時体に感じる手応えが「もの」という観念に成った。だから「もの」とは身体で感じる手応えであり、その内容は「ものがある」であろう。「もの」は既に存在することを含んでいる。更に、夢の中で樹にぶつかった時実際に樹が在るような手応えを感じることから、「もの」が内面化され、心の中に「ものがある」という観念が得られる。さて次にどのようにして心の中に「われ」という観念を持つことに成ったのか。人間はどういう時に「われ」を意識するだろうか。数少ない貴重な食べ物を人々が争う時、結果としてその食べ物を手に出来る人と出来ない人が生ずる。ここで食べ物を握った「われ」と握れなかった「あなた」が意識されることになる。ここに「われ」という観念が生まれる。詰り「われ」とは、「ものを持つわれ」であり「ものを持てないあなた」という観念と一体である。肉体人間は何を措いても生命を維持継続せねばならず、利己心はその表現である。それは本能と言えるだろう。詰り、「われ」という観念は本能に根差している。「もの」があり、「ものを持つわれ」が居る。この観念が私達の心の根底に有り、それが本能に支えられている。だからこそ「われ」という観念を手放すのは至難の業であり、我執に苦しむ訳である。ここに空也上人の『身を捨ててこそ』という言葉がある。

 「われ(我)」が所有と深く関わっているとすると、社会生活の中で行われる所有形態が我という意識に影響を与えると考えられる。昔、日本では主要産業が米作であったが、他方、ヨーロッパでは地中海の交易が主要な営みであった。米作では「我々」が土地を所有しており、対して交易では、個人である商人としての「我」が交換する物を所有する。ここに「我」という意識の強さに違いが出て来る。日本では、少なくとも江戸時代までは「我」という意識は強くならなかったが、ヨーロッパでは時代を経て個人主義、民主主義が確立された。このような見方は成り立たないだろうか?

 さて、「我」が物を持つと「あなた」はそれを持てない。物は「我」のものかそうでないかのどちらかである。この裏には利己心が潜んでおり、排除を指向している。これが矛盾律、排中律の根拠である。詰り、一つの主張は正であれば、否ではない。そして一つの主張は正か否かのどちらかである。これが粒子型論理の公理である。公理の根拠を探るなどということは荒唐無稽な話かもしれないが、為てはいけない訳ではないだろう。実際この粒子型論理に従わない働きが有る。例えば、同じ一つの歌を聞いて私達は感動を共有できる。一つの感動が我のものであり同時にあなたのものにも成る。心は波動であり、これは波動の共鳴である。心は波動型の働き方をするのだ。
 人間の起こす問題は、見た目には物的なものでも、根っこには動機の対立が潜んでいる。そして動機は心であり波動であるから、動機の対立を粒子型論理で解決しようとするのは筋違いである。私達は物質文明の中で肉体生命を生きており、思考を物質の論理である粒子型論理によって規制されるのは仕方がない。しかしいくら粒子型論理で議論を戦わしても、結局動機の対立は解消できず、最後は物的破壊で問題を解決するということに成ってしまう。人類は何千年もの間これを繰り返して来た。そして今なおそれを行っている。

 動機の対立を解消するには、その対立が誤解に依るのであれば、誤解を解けば良いが、対立が双方の利己心に支えられたもの、物欲権力欲に根差した対立であれば、その解消は極めて困難になる。心にはいくつもの意識層が重なっており、今自分の居る意識層を一段奥の意識層へ移すことを自覚という。自分の姿を一段高い意識層から改めて観直すのである。今考えていることに当てはめて言えば、利己心に相応する物的側面では対立するが、奥の意識層では互いに認め合う。こういう解決法が在り得るだろう。「非一不二」、「不即不離」等に通ずる心の態度だと思う。そしてこれは民主主義を実現する為に必要な心理的基礎ではないだろうか。但し、このような解決を可能にする為には、先ず対立者双方が利己心を克服しなければならない。片方が利己を手放しても、他方が激しく利己を追求し続ければ、否応なしに戦いが起こる。利己を放すとは「我」を捨てることである。残念ながらそれが至難の業だ。だからこそ仏教は「無我」を主張する。

 民主主義はキリスト教世界で確立されたが、一神教からすると一見曖昧な波動型思考を理解するのは難しいのだろう。しかし日本の文化は波動型の思考態度を培って来たと思う。