「我」について Ⅱ (物心二元論、魂、無我)
世界の究極的存在は何か。それを考えて、唯物論と唯心論が有る。物質が世界の究極的存在であり、心は物質の働きが作り出すと考える。これが唯物論。対して、物質は心が描き出したものであると考える。これが唯心論。
さて、相対論、量子論は、物質が人間の全く予想できなかった構造を持っていることを明らかにした。これは物質が心とは独立していることを示している。もし物質が心に従属しているなら、心が予想だにしなかった構造を物質が持っているはずはない。一方、明らかに物質は自ら機械を作り出すことは出来ない。人間が意志を以って物質に働きかけて初めて機械は出来上がる。これは心が物質から独立していることを示している。詰り、物質と心が互いに独立して存在し、世界は心が物質に働きかけて作り出されていると言って良いだろう。物心二元論である。これは至極常識的な見解。
ところで、私達は「こころ」という言葉を使う時、その意味は既に分かたものとして使っている。ならば「こころ」として私達はどのようなものを想定しているのだろうか。実際に私達が分かることは、体内に感じる「感じ、考えている」という働きの手応えである。そして働きが有るならば、私達はその働きを作り出す主体があると考える。主体が無く働きのみが有るということは考えられない。この体内に感じる働きの主体を、日本では古来「たましい(魂)」と言って来た。心の働きを主宰するものである。魂の核心は体内に感じる「感じ、考えている」という手応えである。「生きている」という手応えと言っても良いだろう。但し、それは五感で感じ取れるものではなく、どんな形をしているかは分からない。仮に球のようなものを想定し「たましい」と言ったのかもしれない。「我」とはその魂が作り出した観念であり、心は「我」の容れものである。「我」の具体的内容は、主に幼時からの記憶の総体であるようだ。しかし単に記憶を集めただけのものではない。人は各人各様の価値観を持っており、その価値観の基準に従って記憶が「我」の中に配置されている。「我」とは概ねこのようなものと考えられる。
人間は生きて行く為に集まって、分業しながら物を生産し、生産したものを分配する。そこに社会の仕組みができる。人はその仕組みの中で役目を担う。そこに社会的立場が出来る。そしてこの立場を背景にした価値観が生まれる。上司と部下などである。この立場が「我」という観念の主要な土台である。立場の組み合わせとして、人間関係が出来上がり、「我」は人間関係を反映する。立場が変わると、その日から人間関係が様変わりする。この変化を如実に見せつけられ、人間関係の虚しさを感じた経験は多くの人が持っているだろう。社会的立場を土台とした「我」は不変ではないのだ。価値観は、社会的立場だけではなく、幼時の経験や受けた教育に依っても変わる。詰り、「我」には不変な実体が無い。これが理屈から導き出した「無我」である。
「もの」についても同じである。「もの」とは「物(質)」ではなく、人間が物質で作った作物に付与した社会的な意味である。椅子は、単なる木材の寄せ集めではなく、人が座る「もの」である。椅子は壊れてしまえば無くなる。「もの」もまた不変ではない。理屈から言えば「無所得」である。
しかし「無我」の本当の意味は、「我」に対する執着からの解放である。我執に依る煩悩の対治が「無我」の主要課題である。我執は利己心から生まれる。
続く
( ところで、「無我」を主張する手法として、よく次のように語られる。例えば、事故で指を一本落としても「我」は以前と同じように有る。だから指は「我」ではない。この議論を手や足に敷衍し、「我」には五感で捉えられる実体は無い、詰り、「無我」であると結論する。しかしこれは場違いな議論である。山に居て、そこに鯛が居ないから鯛は無いと言っているようなものである。物心二元論から見るとそうなる。)