「我」について Ⅲ ( 利己心、慈悲心 )

 肉体生命は自らの維持継続を本能的に求める。それが利己心として現れる。この利己心を考えるに当たって、生命そのものから始めてみよう。この地球上に生命がまだ存在しない状態があったと考えられる。その上で、人間がこの物質世界に現れる段取りを考えてみる。個々の人間が生まれる前に、先ず生命そのものが有った。生命の本分は自らを豊かに表現することであり、自らを豊かに表現することが生きることである。生命は物質世界に自らを表現すべく形を作り、そこに生命の本分を持つ核を与えた。それを受けて物質世界に現れた個々の生命、人間は、自らを豊かに表現しようとする。個々の生命が自らを豊かに表現し維持継続することで、全体として生命そのものの本分が発揮される。これが生命の描いた青写真であろう。
 これは一つの話であるが、生命の無い所に生命が生まれたとすれば、それは何故、どのようにしてという疑問が湧く。大昔の人もそんな疑問を感じたに違いない。ここでは、この話を前提にして利己心について考えを進めてみよう。

 生命が個々の人間に分け与えられ、各々が自らの生命のみを豊かに表現し維持継続しようとするところから問題が生まれる。自らを生きようとするあまり、他の生命を蔑ろにする訳である。これが利己心である。「我」という観念の核心は、体内に感じる「生きている」という手応えである。詰り、「我」の核心は利己心と言える。「我」は別の言葉で言えば個人の心である。心は意識の重層構造を成しており、心の表層に物的世界に対応する意識層が重なっている。利己心はその底辺で意識を支えている。しかし、利己心の奥にも意識層が有り、それは生命そのものを表現しようとする意識の層である。

 「我」の具体的内容は主に幼時からの記憶であるようだ。その記憶が価値観に基づいて「我」の中に配置されている。価値観も経験や記憶から形成される。価値観は意識層ごとに異なり、重層構造を成す。物事を善か悪に振り分けるのが価値判断であるが、私達の日常出会うことの多くは、敢えて善悪に振り分ける必要は無い。特に価値判断が問題になるのは、利己心が絡んで来る場合である。その判断は当事者の立場に依って異なるが、判断する人の心が居る意識層に依っても違って来る。ひとつの事件が表面的には悪と見えても、背景や当事者の動機を深く探ってみると、一概に悪とは言えない。逆に、一見善さそうであるが裏に悪が潜んでいるということも有る。動機とは、人に具体的な行動を起こさせる意識であるが、動機の奥には更に意識層が有り、動機の動機が有る。そこまで遡ると、最早当人に動機は見えない。よほど耳を澄まさねば、深い動機の声は聞こえないだろう。この意識の重層構造を認めず、異なる層の判断を同一平面に並べ、辻褄合わせをしようとするから、話が難しくなり、「非一不二」、「不即不離」などの表現が出て来る。

 利己心に対するのは利他心ということに成るが、これは物を持つのは「私」か「あなた」かという問題の立て方である。生命そのものの立場からすれば、自らの生命を脇に置いて、他を助け生命そのものを維持し繋げて行くという意識が利己心の奥にある。
 こんな話がある。互いに相手を仇敵と思っている人が居る。一方にお釈迦様が、「あなたにとって最も大切なものは何か」と問われた。その人は「自らの命です」と答えた。そこでお釈迦様は仰った、「ならば彼の命も大切にしよう」。利己を越える一歩である。
 聖書に、『なんじら人に為られんと思ふごとく、人にも然せよ。』という言葉が有る。

 「我」は既に「あなた」を含んでいる。「あなた」に気付くことは「我」に気付くことである。「我」が見えない時は「あなた」も見えていない。意識の層を一段深めることに依って初めて自他が見えて来る。これが自覚であり、生命そのものへの第一歩である。そこに現れる心が慈悲心である。
 生命そのものから見ると、利己心が悪であり、慈悲心が善である、と言えるだろう。