「我」について Ⅳ ( 因果応報 )

 人は暗に、人生には因果の法則、因果応報、が働いていると思っている。罪を犯した者には天が罰を与え、悪いことをすると巡り巡って当人に不幸が訪れる。こんなふうに思っている。しかし現実には、犯罪を犯しながら何の苦しみも受けず、却って幸せに暮らし、幸せを享受したまま死んで行く人が居る。この事実を前にして、もし因果の法則があくまで完遂されるものならば、生命は死後も存続し、因果の法則は死後に完うされると考えざるを得ないだろう。詰り、死後の世界が有る。
 ここで考えようとしている因果の法則は、物理的な因果律とは違って、事を起こす人の動機が絡んでいる。そこで、因果の法則を動機の面から調べてみよう。人の行動が単に機械的に出て来るものなら、行動の価値判断をすることはない。人が自らの行動を自由に選べるからこそ、行動の価値判断が問題になり、結果には自ら責任を取らねばならない。これが因果応報の意味である。ここでは因果応報を、自由とそれに対して取るべき責任という意味に解そう。責任からは逃れられないということだ。

 動機は、実現したい具体的内容と、人に行動を要請する力から成っている。特に行動を要請する力に注目して動機を「念」と呼ぼう。念が人に事を行わせる。
 因果応報を考える時、特に注目されるのは悪因悪果であろう。「我」の保持する記憶を核として、「我」が悪念を発し、人に罪を犯させる。罪とは他を蔑ろにし自らの生命を優先させる行為である。この罪に対して、生命の本性である慈悲心が悔恨の情を発する。「我」はそれを受けて、核となる記憶をそのままに、悪念を悔恨の情へ転換させる。この悔恨の情が善念と成り、「我」に悔い改めの行動を取らせる。その行動の中で「我」は罪に見合った苦を受けることに成る。これが念から見た因果応報である。

 ところが「我」は慈悲心の要請する悔恨の情を拒絶することが有る。「我」が自らの悪念を悪と認めることは、自らを否定することに成るので、この拒絶は「我」の防衛的反応である。慈悲心の促す悔恨の情に抗する為に、「我」は更に悪念を発し罪を犯す。こうして悪念を深め罪を重ねて行く。これは「我」が悔恨の情を受け入れるまで続く。死後に初めて慈悲心を自覚する「我」も有るに違いない。もし地獄が有るとすれば、それは死後に尚この自覚を得られない「我」が捕らわれる境涯であろう。

 さて、罪を受けた被害者の立場からすると因果応報はどう見えるだろう。被害者は、目に見える形で罪に見合った罰が加害者に加えられることを求めるだろう。被害者が復讐心に駆られて加害者を傷つけたとしよう。被害者は因果の法則を代行する心算だったかもしれない。しかし因果の法則は個人的な感情に合わせて働くものではない。生命の本分からすれば、誰であれ生命を傷つけることは罪であり、被害者は悪念を発して新たな罪を作ってしまったことに成る。この先は、加害者と被害者が所を変えながら罪を繰り返して行くことに成る。この悪念の連鎖は、「我」が悔恨の情を受け入れるまで続く。加害者が応報として受ける苦は、誰かが罰として加害者に加えるものではない。犯した罪に対する後悔に苛まれることであり、罪滅ぼしをする中で味わう苦しみである。悔恨の情から逃げているとそれだけ後の後悔は増して来る。これが因果応報であり、自ら責任を取るということである。

 ところで、利己心には組織としての利己心も有ると思われる。個々の生命が組織に支えられながら自らを維持しようとして集まり、組織としての利己心を生み出すと考えられる。この組織の利己心が各成員の意識に強く働きかける。波動の共鳴である。独裁体制が維持できるのは、この利己心が部下を心理的に拘束するからであろう。民族や宗教の紛争にも組織の利己心がが係わっていると考えて良いだろう。一神教の場合、組織の利己心が他宗教の理解を拒絶する。自ら奉じる神を蔑ろにすることに成るからである。これでは宗教紛争の解決しようがない。各宗教は夫々生命そのものの一側面を開いたものである。古来語られてきたことであるが、紛争を根本的に解決し、真の平和を実現するには、当事者同士が組織の利己心を越えて生命本来の慈悲心に立ち返り、互いに他を理解し受け入れるという姿勢を会得する必要がある。しかしその為にどれだけの悲惨を費やさねばならないのか。
 仏教は慈悲、キリスト教は愛、そして神道は和を、私達に語り掛けて来た。

                                                               
   後記 

 生命そのものを霊と言い換えても良いだろう。図らずも、一連の投稿をしながら、物質世界から霊界へ向かってどこまで登って行けるか試みることに成った。「我」から初めて、利己心を観察し、因果の法則に話を進めて、生命の死後存続まで来た。霊について考えることは人生観を転換する第一歩となる。そして真の平和へ通じる道を開くことにも成るだろう。
 拙い投稿であるが、参考に成れば幸いである。いずれ続きを投稿する心算でいる。