社会主義の自滅と民主制(「利己心と歴史の真実」 続き )
かつて資本主義から社会主義への移行は必然であると言われた。資本主義は発展し階級対立を増々激化させ最終的には革命を経て社会主義へ移行する。実際にはそのようなことは起こらず、逆に資本主義経済の未発達な国で社会主義体制が生まれた。しかし、結局その社会主義経済体制は崩壊し、資本主義経済体制に移行することに成ってしまった。ソ連の崩壊は経済体制が社会主義経済から資本主義経済に移行するという実例を示してしまった。予想していたこととは逆の現象が起こったのである。このことを真剣に解き明かそうとした人はいるのだろうか。肉体生命たる人間の心は利己心を根底に据えている。心が身体を動かし社会を変えるのであるから、利己心からこの経済体制の変化を見ることが出来るだろう。
利己心は肉体生命の維持継続を要請するものである。経済の貧しい国の国民にとって食の確保は重要課題である。その為に国民が役割を分担し計画的に効率よく生産を管理する。これは納得のできる方法であり、肉体生命を維持するという利己心の要請に合致している。ここでは統制経済が有効に働く。平等を求める社会主義経済は統制経済である。しかし統制経済が有効に働き生産力が高まり、食の生産が確保されれば、統制経済は利己心に対して逆方向に働く。利己心は自らの肉体生命を他の肉体生命より優先して表現しようとする。物欲支配欲が表に現れるて来る。これが統制経済を嫌うのである。
物質に働き掛けるには物質的な力を以てせねばならないから、生命は自らを物質世界に表現すべくその手段として物質を以て肉体を作った。そしてそこに生命の核を籠めた。これが肉体生命である。具体的に生命を表現する時には物的な環境条件の制約を受けねばならない。環境条件が変われば表現は違って来る訳である。統制経済が肉体生命を維持する利己心の表現として有効であるのは、生産力が弱く国民の生命を維持するに十分ではないという条件が有るからである。生産力が確保されこの条件が解消されれば、利己心は新たな表現を求める。ソ連崩壊の経過見れば、この新たな表現の一つが資本主義経済であると言えるだろう。詰まり利己心から見ると、初めの想定とは逆に、社会主義経済から資本主義経済へ移行する方が自然であると思われる。
生産力が低いという条件が解消した後にも統制経済を維持しようとすれば、利己心の発露を押さえつけざるを得なくなる。こうして社会主義体制が人々の行動を抑圧する独裁体制になる。というより、隠れていた支配欲が露になる。ところで生産力の発展には個人の自由な発想が必要不可欠である。しかし独裁体制はそれを許さないのだから、独裁体制には自らの力で経済を発展させることは望めないだろう。
資本主義経済は市場経済の上に成り立ち、市場経済は民主制が保証している。民主制は人間の利己性を前提にし、それが独裁或いは専制という不幸を生まないようにする為の智恵である。利己性から生まれる人間関係は自他分離であり、自他対立である。この状況を互いに認め合い、その上で秩序ある社会を作ろうとするのが民主制である。その為に選挙をし、多数決で事を決める。そして国民はその決定に従う。しかし誤った決定をすることも有るから、また改めて選挙をする。これを繰り返し、試行錯誤しながら社会を運営し発展を目指して行く。これが民主制を支える基本の考え方である。しかし選挙をすれば民主制が施行されるというものではない。例えば、暴力的に投票先を強制すればそこには民主制は実現しない。民主制の実現には、個々人が自らの利己性を認め、その上で独裁、専制の不幸を避けるという民主制の意味を理解する必要が有る。その為に自由平等独立という観念が掲げられた。これは民主主義を正当化すべく利己心の有り方を抽象的に表現したものである。独裁、専制政治はこの個人の自由平等独立を認めず、権力者の利己心、支配欲のみを剥き出しにして他の肉体生命を抹殺する。これは自滅への道であろう。ソ連の崩壊はそれを示している。ソ連と同じく革命によって社会主義独裁体制を築いた中華人民共和国は、今後どのような歴史を辿るだろうか。自らの力で経済を発展させることはできそうにない。
そもそも肉体生命の発生から歴史を考えて見れば、生命は肉体生命である人間を産み出したが、その人間は利己心由に、逆に人間を抹殺し、或いは殺し合い、そしてそれを繰り返している。これが歴史の奥に潜む絡繰りであろう。利己心の克服は人間に課せられた根源的課題である。民主制はその一つの解答である。しかし残念ながらそれはまだ完全な解答とは言えそうにない。
