呼吸法:口から吐くことの意味を考えてみる
対話は他者との語らいであるが、他者とは、(「呼吸合気の理念」の「自覚(気付き)」で述べたように)相手に映った自分の姿という側面があるから、対話の半分は自己との語らいである。対話とは呼吸に言葉を載せてその言葉を相手と交わすことである。呼吸は心を映すから対話とは詰り心を交わすことである。表面に聞こえる言葉の意味のみが話す内容なのではなく、実は言葉を載せている心が重要な内容である。同じ言葉でも心が違えば別の意味になる。言葉のみに拘り話し合っても対話は成立しない。合理主義的思考態度では対話は出来ないのだ。
私達は互いに胸筋を開き、肚を割って対話する。対話の相手を自分自身にしてみよう。肚を割って自分に話し掛ける。息を口から吐きながら自分に語り掛ける。わだかまりは表出しないと肚に籠る。その籠ったわだかまりを肚を割って吐き出すのである。心の垢を吐き出し、自分の素顔が自分自身に見えるようにする。これが呼吸法の意味である。語り掛ける時私達は静かにゆっくりした口調で話す。そのように静かにゆっくりと肚から吐き、肚まで吸う。これが呼吸法のやり方である。『 そのままの自分で良いよ 』、『 ありのままに生きて行こう 』等と自分に語り掛けながら呼吸しても良いでしょう。
こういう思いで呼吸法をやればおのずからやり方の形は決まって来る。「呼吸の体操、呼吸法」のページで述べてある呼吸法のやり方は基本の形である。姿勢が異なれば其れに連れて形も違ってくる。やり易い姿勢で基本を外さずに呼吸法をすれば良い。
仏教で「空」は重要課題である。この「空」を動詞として「空ずる」と読んでみてはどうだろう。物質世界は空であると言う代わりに、物質世界を空ずると言う。物質世界が在るか無いかを問うのではなく、自分の意識にとって物質世界は何らかの作用を持つかどうかを考えてみる。詰り意識を拘束する働きが有るかどうか。何ら意識を拘束しなければ「空」である。物理の問題ではなく心理の問題として考えてみる。特に感情。感情は強く意識を拘束する。その感情の繫縛から解放されることを「空ずる」と言う。「煩悩即菩提」とは煩悩を空じて感情の繋縛を解くこと。煩悩を空じて菩提を得る。
知的に空を理解しそれを瞑想して体得する。これが瞑想の趣旨なのでしょうか。しかしこれは日常生活とは懸け離れている。生活の現場では煩悩は抽象空間の問題ではなく具体的出来事である。煩悩はいやおうなく空ずることを人に強要する。その煩悩を一つ一つ空じながら人生は進んで行く。一度煩悩を空ずればそれで完了という訳ではない。有限な人間が無限を体得できる訳はない。生きるとは空の継続である。
空ずるのは気付きに依る。自分の動機に気付くことに依り自分で自身が見えるようになる。意識を一段下のより精妙な想念波動に同調させ、其れに依って自他を見る視点が一段上がるのである。
自分で自分を拒絶していると自分は見えない。自分を受け入れる時自分への気付きが得られる。自分を覆っている障害物、拘り、我執を吐き出すとおのずから自分が現れて来る。そこに気付きが生まれる。みずから自分に語り掛けるように呼吸をし自分を受け入れる。この努力が呼吸法である。
気付きは作為を以て得られるものではない。作為は動機を正当化しようとする。しかし(固定ページの「利己心」でも述べたように)肉体としての人間の動機の根本が利己心であるとすれば、作為は利己心に依る。これを嫌ったのが称名念仏である。利己心を空じておのずからなるものに任せようとするのが他力である。他力に完成はない。結局、他力をみずから努める。自力と他力が一体となる。