呼吸法:「肚」と「腰」(内的体感を基にして考えてみる)
腰と肚は対に成っている。腰を据える、肚を据える。腰を決める、肚を決める。腰が据わらない、肚が据わらない。それでは「腰を入れる」に対応する肚の表現は何だろう。「肚を割る」ではないだろうか。
肚を割って語り合う時には、掛け値なしの自分を曝け出し相手と向かい合う。本腰を入れて事に当たる時には、自分を飾らず自分の持っている全ての力を発揮して事に向き合う。「腰を入れる」とは、自分の本当の姿を打ち出すという心理的な意味を持っているのだろう。(「呼吸合気の技法」の「姿勢」で説明した 仙骨を両横から留める姿勢は、腰を入れた構えである。)
前回の投稿で、自分への語り掛けが呼吸法であると言った。
語るとは、言葉を呼吸に載せて相手に投げ掛けることである。言葉の前に心があり呼吸がある。呼吸は心の現れであるから、詰り心に載せて言葉を投げ掛けるのが「語る」である。その言葉を相手と交わすのが「語り合い」である。
「語り合い」は先ず互いに相手を受け入れていなければ成り立たない。気持ちの上で相手と対峙していては語り合いに成らな。一方、「呼吸合気の理念」の「自覚」で説明したように、相手は自分の鏡であれば、相手に語り掛けている時には同時に自分自身にも語り掛けていることに成る。相手を説得している時、自分自身をも納得させようとしているのではないだろうか。ここで語り合いの相手を自分自身にしてみよう。そうすると自分を受け入れて自分に言葉を投げ掛けることに成る。自分に語り掛ける時人はどんな言葉を投げ掛けるのだろうか。各人各様な言葉が出て来るだろう。
語り掛けの言葉を載せず、呼吸のみにしたのが此処で考えている呼吸法である。少々抽象的な言い方であるが、例えば「笑い」は言葉を載せる前の呼吸で、色々な笑いがあり夫々に相応した心を表している。同じ様に、自分に語り掛ける心算で言葉を載せずに息を吐くことが出来るだろう。
自らの秘めた思いを誰かに話すと、問題が解決した訳ではなくても、心が軽くなり前向きな気持ちに成るという経験は誰でも持っているでしょう。それが「語り」である。そこに口から吐く呼吸法の禊としての意味が有るのではないだろうか。
腰、肚と同じように鳩尾も呼吸には重要な所である。鳩尾は腰、肚と関連している。鳩尾を力なく落とすと腰が後ろに抜けて腑抜けと言われる状態に成る。鳩尾を浮かすと腰が定まらず不安の状態に成る。鳩尾を力を籠めて押し下げると我執に囚われる。更に鳩尾が強張ると呼吸が逼迫し肚、腰が固まって精神的ゆとりが無くなる。肚を強調するとどうしても腹圧を掛けたくなる。。これでは語り掛けにならない。須らく呼吸には滞りが有ってはならない。その為には胸筋を開くことが必要である。胸襟を開くには、肩を楽にし鳩尾を緩めるのである。(滞らない呼吸にして初めて呼吸力を発揮できる。)
自らに語り掛けるのが此処で考えている呼吸法である。胸襟を開き腰を入れてゆっくり息を吐く。そして、息を吸う時は「語り」の間を取るのである。
ひとしきり呼吸法をした後には、落ち着いた清涼感が得られるだろう。
(余談であるが、「語り合う」時には言葉を載せている相手の心を聞くことが出来る。しかし「議論」では言葉の背景が聞こえない。川の流れに舟が乗っている時には流れがあり景色が見えるが、議論では合理主義的思考態度が前面を覆ってしまい、言葉の背景が見えない。これでは結論は出ない。所謂根回しが必要な訳である。)