空ずる

 物事は在る様に見えて、その実永続的にある訳ではない。在るとは、私達が在ると確認しているという意味である。確認されなければ私達にとっては無いのである。その意味で超音波は無いのである。無とは存在しない状態を表す形容詞である。

 「無」に似て「空」という言葉がある。「空」とは、物事が存在しないのではなく、在っても意識に何ら作用を及ぼさない状態をいう。例えば壺が在りその中に美味しい飲み物が入っていれば、其の壺は私にとっては有る(意味を持っている)。しかし中に何も無ければ壺は空である。私が権力を得ようと欲すれば権力は有る、しかし関心が無ければ私にとって権力は空である。権力という観念は知っていても何ら意味をなさない。従って私にとっては空であっても別の人にとっては有るということが起こる。

 ( 何らかの意味を持って存在する状態が「有」である。「保有」するという表現がある。「有」に対する表現が「空」。「在る」は存在する事実を表現する。又、「無」は「在る」にも「有る」にも対する表現である。)

 空の議論は物事が在るか無いかを論ずるものではない。空は状態であって実体ではない。形容詞を名詞にして難しい議論をするのは止めよう。無縄自縛の不毛な議論に陥ってしまうだけであろう。

 物事は因果の連鎖で生じ滅し、いつまでも止まっている訳ではない。時に、悩みを抱えている人に、物事には実体がないと言って悩むことを否定しようとする。確かに実体は無い。しかしどうして実体の無い事に悩んでしまうのか、そこを理解し納得しなければ悩みは解決しない。悩んでいる事は本来無いのだから悩むのはおかしいと自分に言い聞かせ、事を直に見ようとしないのは、自己暗示である。それは解決ではなく自己逃避であろう。

 「煩悩即菩提」という。悩んでいる人にとって苦しみの種と成る事は確かに在る。しかし菩提、詰り覚りを得ればその悩みは空となる。覚りとは、物事を見る視点を一段上げ俯瞰してみることであり、悩み事は無にはならなくても心の苦しみから外れる。詰り空になる。悩み事は悩んでいる間は有り、悩みが解消すればその事は意味を失う。これが「色即是空」。この過程が「気付き」、「覚り」。
 「気付く」を「空ずる」と言おう。自己を空ずることが修業の大きな目標である。

 自己は私達にとって大きな問題である。自己とは何か、有るのか無いのか。よく肉体を自己に見立てて、例えば事故で指を落としてしまっても自己は無くならないから、自己は指ではないという議論をする。しかし自己とは観念であり、心に色々な思いを生み出す力を持っていると感ずるから有ると意識される。従ってその力を失えば空となる。詰り自己は有るか無いかではなく、心に何らかの働きを、特に苦しみの種と成るかどうかが問題なのである。何ら苦しみの種に成らなければ自己は空と成る。
 喜びを積極的に自己と結びつけないのか。喜びは謂わば時間限定のもので、何時までも喜びの情態を続けられる訳ではない。時が経てば喜びは収まり、そこで更に喜びを追い求めれば、それは執着となり苦へと転換してしまう。これが仏教の考え方であり、私もそう思う。

 自己を空ずることが人生の大目標である。自己への執着は究極的には肉体の維持継続に発すると思われる。従って自己を空ずるには肉体を、詰り生死を脱する必要がある。自己への執着とは利己心である。利己心を空ずる努力を「禊」と言って良いだろう。私が前の「随想」で説明した、自分へ語り掛ける呼吸法は一つの禊の方法であると思います。利己心の向こう側を精妙で普遍的な想念波動が流れていると私は考えます。利他心や、慈悲心、共感等は普遍的な想念であろう。その想念に意識を同調させるのが呼吸法の遙かな目標である。そこに生死を解脱した境地が有るのではないか。

 ※ 修業に当たって油断してはいけない。どれだけ崇高な目標を立てても、利己心は執拗に追い掛けて来る。功名心、名誉心が付け入る隙を狙っている。