汝自身を知れ

 意識の場というものを想定してみよう。その中に想念の波動が流れている。波動の基本的性質は、重ね合わせの原理。一つの想念波動が流れている所に別の想念も流れることが出来る。ある感情を抱いた時それとは別の感情も同時に抱くことが可能である。波動に対するのが粒子である。一つの粒子が在る場所に別の粒子は存在できない。また一つの場所はそこに粒子が存在するか存在しないかのどちらかである。この有様を端的に表現したのが矛盾律、排中律である。矛盾律、排中律は論理の基本である。AはAであり、非Aではあり得ない。またAでなければ非Aである。喜びはあくまで喜びであり、同時に悲しみや怒りになることはあり得ない。対して想念は波動であり矛盾律、排中律は適用されない。心には、喜びと、悲しみ(非喜び)、怒り(非喜び、非悲しみ)が同時に在り得る。人間存在は波動的であり、論理では理解しえない。西洋的思考の基本は論理であり、従って西洋の思考法では人間存在の問題を捉えることは出来ないのではないか。

 波動は、波長の長い波から短い波へと重層構造に成っている。荒い波動の中をより精妙な波動が透過するということがもう一つの波動の特徴である。無線通信は周波数を同調させて電波を捉えるが、周波数が違えば電波が流れていても分からない。私達は自ら同調する想念波動を認識し、同調しない想念波動は意識されない。その人にとっては無いのと同じである。エックス線は肉体を透過して骨を映し出す。エックス線にとって肉体は無いのである。しかし気付かれないからと言って何の働きもしないという訳ではない。エックス線は大量に浴びると人体の健康を害する。超音波というのもあるが、超音波は聞こえなくても物体を破壊する力を秘めている。

 人間は動機、何かをしたいという思い、に基づいて行動する。動機は感情を伴った想念である。その想念波動は意識を同調させないと気付かれない。しかしその動機は気付かぬうちに人の行動を誘導するということが起こる。思考も頭脳の行動であり、私達は動機に基づいて思考する。感情は強い力を持っていて、その感情を伴った動機が思考を支配してしまうのである。正しく思考している心算でも、実は感情に誘導されて動機を正当化するように思考を尽くすということがしばしば見受けられる。

 意識の層は何処までも深く精妙になって行くが、肉体にまつわる意識の層には底が有るのではないだろうか。底とは利己心である。私達の現実生活はこの底の上で営まれている。遠い昔、人間が社会生活を始め、社会内での立場が出来、その立場と肉体とを一体のものと意識して自己という観念が生じた。そして肉体生命の維持という本能的欲求が自己という観念の維持に転換され利己心となった。利己心は衣食住を求め、立場を強くする権力を追求する。この利己心を根底の動機として物的な日常生活は営まれている。

 私達は人と話をする時言葉の意味に注目するが、話す人の目の動きや、口ぶり、手ぶり、等々を受け取って気付かぬうちに感情的反応をする。感情は知的働きより深い意識の想念である。対面、対話等を介して感情は伝搬する。似た感情を秘めている人が多ければ想念波動が共鳴し唸りを作る。人は自己の安定を求めるが、社会が不安定になると自己も不安定になり不安を抱く。その不安を回避する為に自己を集団に同化させ自己の安定を図る。ここに想念の唸りが生じ、それが集団組織としての纏まった意識となって組織の利己を追求するようになる。社会的運動が組織を作り大きくなると、運動の元々の精神は差し置いて組織の富や名声を追い駆けるようになるのはよくあることである。

 社会状況が人々に不安を抱かせれば、その想念が唸りを作り、更には社会的騒乱を現象する。しかし人々の想念が全く同一であるということはなく、利害関係や、思想、宗教、道徳観、等々の違いにより想念の唸りはいずれ均される。ほとぼりが冷め経済状況が変化すると、またそこに利己の対立が生じ争いが生まれる。これが歴史の基本型である。利己の象徴である、物欲、権力欲、が歴史の原動力となって、争いを拡大しながら再現して行く。

 自覚とは心に有る自らの想念を如実に知ることである。自らの感情想念を直に捉えることによってその感情を相対化し、感情が意識を引きずっている状態から抜け出る可能性が出て来る。利己を自覚し感情を統御出来れば権力欲が作り出す不幸は生まれず、歴史は変わり得るのではないか。組織は個人を覆って自覚を不可能にしてしまう。大々的平和運動より、一人ひとりの心掛けが平和に繋がっているのではないか。
 自覚を妨げているのは自己への拘り、利己心である。利己に駆られている時、人は自ら意識の統制を失ってしまう。その時の呼吸は明らかに滞りのない豊かな呼吸ではない。それは籠る呼吸であろう。呼吸は想念と強く結びついている。その籠った息を吐き出し内の利己心を希薄にすることは出来ないか。
 心身を清めることを禊という。心内の汚れを吐き出そうとするのが禊の呼吸法である。汚れとは利己心、自己への拘りである。この拘りを吐き出して利己という心の底を抜いて、より精妙な意識の層に同調しようとするのが禊である。利他心とは利己心の下に流れている想念波動に属す。誰の心にも流れている。禊の呼吸法は滞らない呼吸を稽古し、肉体想念の向こうに有る普遍的な、開かれた心に同調しようとする。利他心を志向する。

 修業とは新たな自分を作り上げることではない。新たに自分を作り上げようとする思いは既に一つの拘りであり、気を付けないと利己心に付け入る隙を与えてしまう。利己の争いの中に利他を求めそれを行った人がどの争いの中にも居た。自己への拘りを放つことが出来れば利他は自(おの)ずから現われて来る。拘りの無い幼子は親切で優しい。
 自己への拘りを放つことが修業の目標である。自らを、広く、深く、知る努力である
  『 汝自身を知れ

  『 呼吸合気 』は滞っている呼吸を開き、心に秘めている諸々の拘りを吐き出す努力である。