人は動機に基づいて行動する。思考も知的行動であり動機に基づいて思考する。詰り、動機を正当化しようとする。
論理的思考は前提から始まる。その前提は論理的に導き出されるものではなく、任意に論者が選ぶことが出来る。それは論理的思考の始まる前の話である。動機は前提の選び方に表れる。或いは前提とした事柄の解釈の仕方に表れる。前提が定まれば後は論理的思考を組み立てて行けば良い。その過程は間違いがないか検証できる。ただ検証の仕方にも動機が影響するが。だから話の本質を見るには論理的過程を見るよりもまず前提の選び方を見なければならない。古代ギリシャでは天動説が唱えられた。それは、円を普遍的な形と見做し、大地を動く筈はないと考え、そのことを前提にして星の動きを観察し軌道を導き出した。随分複雑な軌道を推論したようである。論理的過程に間違いが無くても前提に誤りが有れば真実を導き出せない訳である。論理的正しさは結論の正しさを保証しない。しかし当時の人達は納得していたのだろう。
人の意識は想念波動の重層構造に成っている。表層に五感がありその下に五感が得た情報を整理して作られる外界の観念がある。その下には記憶があり、表層の観念と記憶が更に観念を作って行く。情報を結びつける働きはどの層にも適用され色々な観念を作り上げて行く。そうして作られた幾つもの観念を更に秩序付け結びつけてもう一段上層の観念を作る。更にまたその上の観念も作る。こうして観念が幾重にも重なって観念の構造物が作られる。ここで取り扱う観念の層が違っても観念を取り扱う知的働き自体は同じ一つのものである。物事を比較し秩序付ける働きは意識のあらゆる部分に行き渡っている。違うのは扱う観念の層である。しかし西洋の思考法は取り扱う観念の層に対応して働く知的主体が違うものとし、それらに色々の名前を付ける。五感の層が知性、その上の観念に対応して悟性、更にその上が理性、その上に更に働く主体を考えて純粋理性。同じ様にして絶対精神というものも作り出されたようだ。西洋の合理主義的思考はこうして想定された知的主体が抽象空間に実体を持って存在し人間の意識に働きかけていると考える。
思想家は思索の根本となる動機を持っている。その動機を正当化すべく思索を尽くす。思想を組み立てる時、論理展開をする為の梃となるべき言葉、概念を提示する。「理性」や、「形相」、「イデア」等。「労働価値」もそういう言葉であろう。例えばカントは「純粋理性」という概念に自分が望む世界観を担わせようとした。カントは純真な人で世界は透明で均整の取れたものであってほしいと望んでいたのだろう。これが動機であろう。しかし話が晦渋である。アリストテレスは「形相」、プラトンは「イデア」、マルクスは「労働価値」である。これらは共通して、無いものを在ると想定し、その扱いに困って結局難しい議論に迷い込んでしまっているのではないか。こんなことを言うと叱られてしまうが、これはアンデルセン童話の裸の王様である。無縄自縛。こうして出来た観念の構造物が西洋の思想、思弁哲学であると私は思います。日本人には馴染みの無い思考法である。
観念を操作する働きとは別に感性、というより感情というものが在る。これも意識全体を覆い意識を色付けている。想念は陰に陽に感情を伴っている。動機は想念であり感情と結びつき、その感情が強い力で人間に行動を要求するのである。私達が何かを得ようとする時、どうしても利害の対立に直面する。そのため自らの行動を正当化しなければならなくなってしまう。詰り、動機を正当化すべく知的思考を行う訳である。こうして思考と感情が結びつく。これが合理主義的思考態度の原型である。従って、合理主義的などと大袈裟に言わなくても、同じ事は日常よく見掛けることである。難しい思想も動機に発しそれを正当化するという基本構造に変わりはない。但し思想を提示する人が自らその動機に気付いていなことがある。
カントは当時普遍的真理と見做されていたユークリット幾何学、ニュートン力学に基づいて世界観を構築した。そして自分の作り上げた世界観を普遍的と見做した。しかし現代の科学的知見からするとユークリット幾何学もニュートン力学も普遍的なものではなく、限定的な真実である。ユークリット幾何学は平らな平面上の幾何学であり、ニュートン力学は概ね五感で捉えられる外界にのみ適用される法則である。曲面上の幾何学が考えられ非ユークリット幾何学となり、五感をはるかに超えた高速世界や極微世界には相対論、量子論を適用しなければならいことになった。ニュートン力学は普遍的法則にとって必要ではあるが普遍的であるためには十分ではないということになった。更に言えば相対論、量子論も限定的な理論であるかもしれない。人間の能力は有限であり、無限の真理には到達できない。真理に対しては謙虚でなければならない。
( 誤解のないように言っておきますが、合理的と合理主義的は別です。合理的態度は自分に誤りがあれば改める。合理主義的態度とはひたすら自分の動機を正しいと主張する態度を言います。その為に論理を使う。あからさまにこう言われるとそれがおかしいと分かりますが、実際は合理主義的な場合が多いのではないですか。)
事が起こるには必要な条件がある。必要条件という。これは一つとは限らない。幾つかの条件が整はないと事は起こらない場合がある。対して、その条件が整えば必ず事は起こるという条件がある。十分条件である。事が起こるに必要であり、且つその条件が整えば必ず事は起こるという条件がある。これを必要十分条件という。科学的研究は必要十分条件を求める。その方法は仮説と検証である。自然科学では、仮説を立てそれに基づいて現象を算出し、それを実験で検証する。実験で算出結果を確認できれば仮説は真実を捉えていると認められる。
歴史や経済学は社会科学と言われている。科学と名付けられているが、自然科学と違って実験による検証が出来ない。私達が経験する社会現象には似たものも在るが、完全に同じ条件のもとに起きる現象はない。似た現象があったという意識が既に条件を違えている。従って社会科学には現象が起こる為の必要十分な条件を確定することは出来ないと私は思っている。社会科学に出来ることは必要と思しき条件を高い確率で推定することである。政治家は経済学者の協力を得て政策を打ち出すが、学者だからと言って百パーセント確実な政策を提示出来る訳ではない。実際の政策は十分条件を実施する訳ではないから必ず不都合な結果を伴う。政治はここで不都合な結果を吟味しそれを改善して行くしかない。
有限な人間としてはこうして前進して行くしかない。しかしここで利己心が顔を出し、自らの勢力拡張を目して政策を批判する者が現れる。その場合動機が透けて見え、直視に耐えないこともある。為政者が真剣に事に取り組んでいる場合はこういうことにもなるが、例えば社会的な不幸、貧困とか飢饉等で世の中が不安定になっている時、社会科学は必要条件と思しきものを提示するまでしか出来ないにもかかわらず、何らかの事を必要十分条件であるかのように主張する人が出て来る。
理想社会を実現するための必要十分条件は階級を無くすことであると唱え、社会に宣揚する。権力奪取を根本動機とした合理主義的思考態度である。そうして人々の感情的エネルギーを糾合し革命を起こす。実際に革命を成し遂げ階級を無くしたが、意に反して独裁体制が露われて来た。人を見る時何を言うかではなく何をするかを見ろと言われる。する事に動機が露れる。そのように革命家を見ると、革命家は権力欲に突き動かされた利己的な人間ということになるのではないか。大きな革命としてはフランス革命、ロシア革命、中国の革命がある。これらに共通しているのは大量な殺人と権力闘争である。それを見て私は革命は独裁権力闘争であると思う。歴史の現場は動機の衝突である。
人間として求むべきは、暴力革命ではなく、殺し合いをせずに歴史を変える方途である。残念ながらその途はまだ見付かっていない。